大塚先生一周忌

GFへ                     2011/02/13
 大塚先生の一周忌。先生達とお線香をあげてきた。Gの手紙も舛さんの了解をとって仏前に供えてきた。あとで家族の方が読んでくだされば、きっと喜ばれることだろう。
 神戸に住んでいるという息子さんの家族は、今朝帰るつもりだったのに、中国自動車道が雪で通行止めになっているとかで、まだ帰宅できず、お陰で可愛いお孫さんたちにも会えた。あんまり可愛いので、「また会おうね」「ハイ」
 その後、飯塚にもどり立岩藭社近くのホテルで昼食会兼反省会。一年という時間は、いろんなものを淘汰してくれる。じつに楽しい時間だった。とは言え、3時間に及ぶ飲みごとなので、くたびれた。
 呑みつつ、一人分ずつ、ひとりひとりが意見を言わなくてはいけない。それを聞いていて気づいた。どの人も、大塚先生について書くということは、自分について語ることになる。そういう人間関係があそこにはあるのだ。
 批評は、じつに率直だ。松尾氏は舛さんの文章について、「途中からは要するに作品だなと思ったから、ちゃんと読んでいない。」と言う。実は、編集にあまり気が乗らなかった理由のひとつがそこにあった。
 陽子先生の短歌については、「なんというかな。たたずまいがあるっちゃんな。」(松尾氏)その通りだと思う。「歌は姿だ」と言ったのは保田與重郎だったか、折口信夫だったか、堀田善衛だったのか忘れた。が、今はそれがもっとも正しいと思う。歌だけではない。俳句もまたそうだ。正岡子規が否定するものは、要するに姿が整っていないのだ。なのに、なんとも言いようのないすっとした姿の俳句をつくった子規の短歌にはその姿がない。むずかしいことなのだろうと思う。
 その姿のよさが陽子先生の歌にはある。いま時そんな歌をつくるひとはもう陽子先生以外にはいないのかもしれない、というと、舛さんが手を差しのばしてきて、「よう言うた。おなじ意見の者がいて嬉しい。」 そんなふうにして話が進んでいく。
 もちろん話はあっちに飛び、こっちに回り、延々とつづく。そのなかで心に残ったもの。
 京都では、(10年ほど前になくなった時枝先生の奥様は京都の出身。いいとこのお嬢さんだったらしい。板垣先生によると、「あまりにいいとこの娘さんなので躊躇している」というので、「気にするな。もらえ。」と言ってやった。そうな。)初盆のとき、遺族をそっとしておこうと、その家の墓にお参りに行くという。「あの気の使い方はすごいっちゃんな。」
 たまたま先週、2級後輩の父上が亡くなった、という連絡が届いた。ウチの母親と前後して別のグループホームに入居した方だ。本人は東京で働いているので、弟と妹が面倒をみていた。・・・そのことを「ごめんね」と言うと、「気にせんでいい。東京で力いっぱい働いてくれているのが嬉しいっちゃけ」・・・そんな兄弟らしい。
 「いっしょにお悔やみに行こう」という誘いを断った。体調が悪いこともあったが、信頼しあっている兄弟たちの貴重な時間を邪魔したくなかった。それで良かったのだと思っている。それくらいのことで、そいつとの関係が変わるとはまったく思っていない。
 オレの順番になると舛さんが、「作品を書きもせんで後書きだけで逃げるとは何事だ?」と言いつつ、「○○君は、板垣さんを超えつつあるのかもしれんと感じて嬉しかった」と持ち上げてから、
――さて、次号はいつ出しますか?
――(まだ出す気だったの?)
 時枝先生も楽しかったのだろう、
――次号を出してから反省会というと、いつになるか分からんから、一度、原稿を書く前に編集会議をやろう。
――では、編集会議は3月ということにしよう。(舛さん)
――(いくら何でも近すぎるやろ!?)
 駅への帰り道で、時枝先生が、「4月からはどうするんだ?」というので、「なにも決まっていません。ただ、この25年間はなんとも贅沢な時間でした。」というと、「そりゃ違う。お前が勝手に贅沢な時間にしてしもうたとやろ?」
 恩師はすべてお見通しのようでありました。
 3月は巡礼の旅が待ちかまえているから、月末にしてくれるように頼もう。

別件
 自慢話。
 昼食会の世話をしてくれた店の女の子が、どことなく飯塚にはそぐわなく感じた。いわゆる美人の基準からいうと相当にはずれているのだけれど、イイ女の素質十分。(飯塚も八女に負けず劣らず、特産物はイイ女なのです)「飯塚のご出身ですか?」「いえ、生まれは京都です。育ちはきゃぴきゃぴの北九州っ子ですけど。」
 フム、オレの眼力は相当のものだ。見る能力だけだけれど。またチャンスを見つけて、あの店に行こう。なにしろ、19歳だという。