素人教師の述懐

GFへ 2011/02/25
 どうやら実質的な仕事は、受験指導をふくめて終わった。あとは、卒業式参列を残すのみ。足かけ35年の教員生活が終わりかけていることにほっとしている。なぜなら、自分は教師には不向きな男だったんだと思うから。どこかで相当に無理をしながらセンセイを演じていた。
──けっきょくオレはシロウトのままだったんだな。
 プロであろうとした時期もあった。が、いつか、どこかでそれを断念した。断念して、「プロの男、プロの親、プロの人間などどこにもいない。すべてシロウトなのだ。」と開き直った。それで何とかなる仕事でよかった。
 振り返って見て、ずいぶん贅沢な時間だったと思う。その贅沢さは、アマチュア精神がもたらしたもののような気がする。
──お前が自分勝手に贅沢にしたとタイ。
 昔、大相撲の曙がインタヴューに答えて、「相撲を面白いと思ったことは一度もない。これは仕事なんですよ。」と言ったことがある。が、この男は、お金になりそうなことにはエネルギーが湧かなかった。むしろ、金になりそうにないこと、他の人が手を出しそうにないことだったら猛然とアドレナリンが出た。
 「面白くなかったら仕事にならない。」
 なんとわがまま勝手だったことか。
 もちろん、その面白そうなことをやるためには、その他のことを前もって終えなくてはいけなかったのではあるが。それならやれた。そうして気がついたら、35年も経っていた。「スゲェ。」
 しかし、それは仕事だったのか? 遊びだったのか?
 いや、遊びと仕事は、曙の言うように、別々のものなのか?
 たぶん、この素人教師は生徒にも、「勉強と遊びは別々のものなのか?」と問い続けていたらしい。
 高校生のとき、自分の進路について親が納得せずに、「姉ちゃんに訊け」と言った。国立大学の薬学部に(それも文系クラスから現役で)合格した姉には、親がすでに一目おいていた。弟も姉を信頼していたし、たぶん姉も弟を信頼していた。先生の本を「難しすぎてアタシ分かんからアンタ代わりに読んで」と渡されたことから全てが始まった。兄弟とはそんなものだとばかり思っていた。
 のちに、板垣先生から(そうか、いつだったのか分からないが、「積極的無情」について書いたときに、板垣先生から独語を習ったという人がコメントをくれていた。たぶん、桐蔭出身の人だろう。「お互いに、とんでもない男に出会ってしまいましたね」と返事したかった。)「お前たちのように仲のいい兄弟は珍しい。」と言われてピンとこなかった。「そんなに他の兄弟は仲が悪いんですか?」
 話を最後まで聞き終わってから、姉は溜息をついて言った。「アンタはどうせ、自分のしたいようにしか生ききらん人やから・・・。」
 その、「そうしかしききらん生き方」をしたのだろうから贅沢だったには違いない。ただ本人は「教師には向いていなかった」と改めて思う。いまでも、一番恥ずかしい仕事は政治家、二番目に恥ずかしい仕事はセンセイだと思っている。その恥ずかしさをよくぞ我慢した。
 さて、ご褒美は何にしようか?

別件1
 遊びの極意
 退屈な勝利よりは、美しい敗北を。
       ─ヘンドリック・ヨハン・クライフ
別件2
 『あんぐりまんぐり最終号』を配布。
 ベネディクト・アンダーソンの例のことば
 One grows up by growing back.に超訳をつけ加えた。
「人は成長し直すことによって成長する」
 あとひとつ、加藤周一のことばも少し変えてのせた。
 「小さなものをもとにして殖やしていくという発想」
 ES細胞やips細胞のことを思い出したからだ。