ジャニス・ジョプリンとカルメン・マキ
GFSへ
2011,3,1
カルメン・マキの歌をどうしても聴きたくなったので、『ベストアルバム』という題名がついているCDを買った。「ディン、ディン、ディン」が聞こえてくるだけで何だかうれしくなる。ただし、ライブ版のLPの迫力が懐かしい。彼女にスタジオ録音は似合わない。大名時代にGが、「後ろのツツツツツツチュをやりたかったでしょう?」とからかったことがあるが、それは今でも一緒だ。
その歌を聴いているうちに気づいたこと。
「ポケットに思い出つめこみ、ひとり汽車に乗ったの。・・・
もう二度ともどることもない。この町ともさよならね。」
―私は風―
「夜が明けたら、切符を用意して頂戴。
今夜でこの町ともお別れね。
とてもいい町だったけどね。」
―夜が明けたら―
70年代とは、そういう時代だったのか。
あとひとつ知ったこと。
カルメン・マキが、『時には母のない子のように』からヘビメタに転じたのは、ジャニス・ジョプリンの強烈な影響が大きかったらしい。
とすると、
「あんたの好きなように生きればいいと
すり切れたレコード お前のブルース」
「遠く聞こえるお前の唄が、いつも私を支えた。」
と歌う『空へ』は、彼女へのオマージュだったのかもしれない。
あとひとつ。70年代の個人的な記憶にぴったりの『六月の詩』がCDに入っていなかった。――これじゃベスト・アルバムにはならんじゃろ。
で、その詩を下に紹介する。
『六月の詩』 加治木 剛
私の心の隙間に
六月の風が吹いても
あの夏はやってはこない
悲しみを殺したままに
笑いながら通り過ぎていった
なまぬるい六月の風
夏を待つ都会の静けさ
渦を巻く鬱な気分
喘いでいる私の自由を
掴みとれるのは あなたじゃない
去年の夏のままに
私はしゃがみこんでいる
私の夏は続いている・・・・
別件
いま、夜中の1時。
今日ですべてが終わった。いい卒業式だった。「あいつらも最後はイイカッコをしきったな。」
先週の土曜日になって生徒会長が、「答辞の内容を自分なりに訂正していいか?」と言い始めた。望むところだった。「月曜日の朝一番に原稿を持ってきたら間に合わせてやる。」生徒自身の言葉になっていたから、急いで話を回して了解をとった。だから昨日は半日その準備に忙殺された。が、それだけのことがあった。
3学年で第一回目(2回目は12日からの霧島応援旅行)の打ち上げに中洲に出た。実は今朝から頭が痛くて「大丈夫かな」と思っていたが、呑んでおしゃべりしている内に頭の痛いのを忘れていた。「こんな飲み会ばかりだといいのにな」と言ったのは二次会でトイメンに座っていた年若い学年主任。「うん。ほんとにそうやね」
けっきょく、ふだんは8時就寝の男が11時半までつきあった。ずっといっしょに組んで働いていて、記念に切り子細工のぐい呑みを渡した男ではないが、「いい時にやめる」結果になるのかもしれない。
その男はやたらと物ぐさなところがあって、「卒業式後のLHRはもう話すことがないから代わりに何か言え」という。実は前日の学年の前でも、学年主任が「何か話してくれ」というので大演説をぶった。悪ガキどもが何とも真剣そのものの目で聞いていた。どのくらい真剣だったかというと、話が終わったあと、「礼」の挨拶をしきらんやった。あんな真剣さは記憶がない。
今日は「自分の外側にある論理を頼って生きるな。究極の決断は自分の感性を信じて行え。自分の感性に賭けることができる人間になれ。」という檄にした。
そうか、あとひとつ報告し忘れていたことがあった。
例の、1明治、2明治、3明治、4明治と書いていたやつは、本当に「先生の後輩になります。」中学時代はまともに学校に行かず、高一、高二もぎりぎりの出席日数だったが、なんとか帳尻を合わせた。今日、式後に母親が名残惜しそうに挨拶に見えた。「あいつとの本当の付き合いは、これから始まることになると思いますから。」
そういう具合で先住民の息子は社会人としての義務を果たし終わった。
満足じゃ。なんの不満もない。
あとは、わが野心を成就させるために努力を傾注する。