調査捕鯨中止に関する緊急アピール

調査捕鯨中止に関する緊急アピール
2011.3.4

 私たちは、日本国民の生命を守るために重大な決心をした。日本政府は今年の調査捕鯨を中止するよう関係諸関諸氏に通達した。私たちもまたそれを承諾したことを世界に報告する。しかし、それは「鯨を守れ」と叫ぶ人々の意見に賛同したからでは決してない。
 他国の人々が自分たちの飼育している牛や豚や羊に愛情を注いでいる以上に、我々は鯨への畏敬の念を持ち続けてきた。なぜなら、その偉大な体躯はそれだけで我々に大いなるものの存在を知らしめてくれていたし、かれらの家族への細やかな愛情は、われわれにけっして忘れてはならないことを教えつづけてくれていたからだ。さらに、鯨はわれわれにとっては有史以前からの、飢えを避けさせてくれる貴重な自然からの贈り物であっただけでなく、その体は髭や骨にいたるまで楽器や操り人形などのわれわれの民族的誇りである独自文化を成り立たせてくれていた。鯨はわれわれにとっては友人などではない。われわれ以上の偉大な存在なのだ。
 しかし、われわれは調査捕鯨を中止する。日本の芸術家には、まがい物を代用しても、その献身的な努力でこれまで同様の成果をあげることを期待するしかない。
 日本には古来より、海辺の人々、平野部の人々、川辺で暮らす人々、山で暮らす人々、それぞれの独特の文化があり、現在に至るまでそれを守ってきたことは我々にとっての誇りであった。そのなかで、海に生きる人々にとっての捕鯨は、彼らの伝統文化のシンボルであった。そのシンボルを守ることができなかった日本政府の無力を、われわれは批難しない。
 われわれは、捕鯨に反対する人々の暴力の前に膝を屈することを選ぶ。なぜなら、われわれの文化を守るためとはいえ、捕鯨に携わる人々が生命の危険にさらせれているのを座視するべきではないと判断したからである。
 われわれの決断に快哉を叫んでいる人々に申し上げたい。
 自分たちの考えに絶対的自信をもっている場合は、自分たちから見て不正を働いている人々には暴力を行使してもよいという考え方に、日本は異論を唱えてきたことを確かに記憶しておいて欲しい。その異議申し立て自体を取り下げたわけではないことを明確に表明する。ましてや、世界中がひとつの文化に統一されるべきだという考え方には、痛切な歴史的反省をこめて、断固反論する。
 この世界には、多様な人々、多様な文化が存在する。その多様さこそが豊かさの源泉なのだ。われわれには幾つもの異なった人生観や価値観が必要だ。その多様さが地球上の次の世代を救うとわれわれは信じて疑わない。だから日本は、自分たちと異なる考えをもった周辺の人々とも共存するために、時には屈辱に耐えながらでも友好を維持しようと努力している。その忍耐をわれわれは誇りに思う。
 文明国にあって、野蛮さは排除できない場合でも隠蔽されるべきだ、という考え方には、われわれもそうあろうとしてきたし、これからもその意志は変わらない。しかし、心を痛める他国の野蛮な行動、それも人々に対する野蛮な行動に対しても、われわれは軍事力を行使せずにこの半世紀以上を経てきた。そのことへの賛否は当然あるだろうし、批判を甘んじて受ける覚悟はある。が、同時に、すべての野蛮さを暴力的に押さえつけるようとすることは、われわれの文明を内部から衰退させる重大な危険を伴っているのを忘れてはならない。野蛮さをすべて抜き去ろうとすることは、自分たちの文明を去勢しようとすることにほかならないのだから。
 この文明を守るためには、他者の存在を認める必要が絶対的にあるのだということを、われわれは再度訴えたい。
 最後になるが、この国には自然を尊ぶ古代からの風習がある。動植物のみならず、山や川や岩や草木にいたるまで、われわれにとっては遠い父祖の思い出とつながっている。そのことを「子供じみている」と笑う人々がいることは承知している。しかし、遠い思い出が現在の文明を支えていることを、われわれはすべての人々のために忘れない。一方、不幸にして、工業化を急ぐあまり、自然を汚染し、人々にまで健康被害が及んだ苦い経験を我々はもっている。その反省と教訓から、日本は環境汚染を防ぐための、また環境を復活させるための高い科学技術力を養ってきた。今後、世界のどこであっても、環境汚染を未然にふせぐために、あるいは環境や自然を快復させるために我々の知識と技術を必要とするところがあれば、われわれはその要請に従って自ら出かけてゆく用意があることをここに表明する。
 今回の日本の捕鯨中止の決断が意味することを、世界の人々が自分たち自身の問題として考えてくださることを祈ってやまない。