「亡国の輩になりたくなかった」

『墓標なき草原』
第一部「日本刀をぶらさげた連中」
 第2章「亡国の輩になりたくなかった」
       ―満州建国大学のトグスの夢―          
打倒ウラーンフー!
(1906〜1988。コミンテルンの指示でソ連留学を経て延安に入る。中華人民共和国成立後、内モンゴル自治区人民政府主席、中国共産党内モンゴル自治区委員会書記、内モンゴル軍区司令官兼政治委員。中国共産党華北局副書記、国務院副総理)
打倒ハーフンガ!
(1908〜1970満州国駐日本外交官。内モンゴル人民革命党――1947年活動停止――の中堅リーダー) 
打倒トグス!
満州国建国大学中退。内モンゴル人民革命党の主要幹部。内モンゴル人民革命青年団の創設者。内モンゴル自治区宣伝部副部長)

反革命修正主義者、民族分裂主義分子、トグスの罪悪の歴史」
              (1967年12月『教育革命』より)
 1943年 トグスは「興蒙党」を作り、「全モンゴルを復興させ、統一させよう」という反動的なスローガンを打ち出していた。
 1945年 トグスは「内モンゴル人民革命党」青年同盟の書記と機関誌の編集主任をつとめた。
 1946年 トグスは内外モンゴルの合併を目指す署名活動が失敗したあと、モンゴル人民共和国へ逃亡をはかるなど、祖国を裏切ろうとした。(内モンゴル自治区・・紅色造反者革命大批判連絡センター『革命大批判』)
 1947年 トグスは「ウーランフー万歳」「ハーフンガ万歳」などと叫び、モンゴル人民が「毛沢東万歳」と叫ぶのを阻止した。(『教育革命』)
 1967年5月から6月にかけて、内モンゴル師範学院付属高校の3年生と師範学院物理学部の1年生がモンゴル人民共和国へ逃亡しようとして捕まった。民族分裂主義者のトグスは師範学院にやってきて、「堂々と生きなさい。これは単なる思想上の認識の問題にすぎない。大学の受験にも影響はない」と発言していた。(「反革命修正主義分子、民族分裂主義分子トグスの教育界における罪悪」魯迅兵団教育庁聯合委員会)

「『罪悪に満ちた歴史』はすべて事実です。その『罪悪活動』について説明しましょう」―トグス―
 建国大学には日本人のほかに、朝鮮人、モンゴル人、それに漢人などがいた。モンゴル人はもっとも少なく、大学全体で30〜40人しかいなかったのではないか。
 建国大学にいたころ、共産主義思想の本を読みあさっていた。『大衆哲学』や『社会科学概論』のような中国語の本や、日本語の『共産主義宣言』など、当時の満州国では禁書とされていた本を手放さなかった。
満州国も今の中国と同じように、あまり言論の自由はなかったのです。国内各地から没収された共産主義思想の本は大学の書庫に眠っていました。図書館のカウンターには亡命してきたロシア人の美しい娘がいました。私の友人はロシア語を話せました。いつも、彼がロシア人の娘を口説いて、禁書を借りては読んでいました」
 興蒙党は文字通り「蒙古を復興させる党」だ。・・・30〜40人が秘密裏に集会を開き、「チンギス・ハーンの精神でモンゴルを復興させよう」と決心を固めた。
「毎朝の朝礼の時に、みんなで『モンゴル復興はわれわれの肩にある』とモンゴル語で叫んでいました。日本人の教官たちもそれを支持していました。」
1945年8月18日に、ハーフンガは『内モンゴル人民革命党』の復活を宣言した。10月5日に『内モンゴル人民革命青年団』が成立した。――トグス21歳――「内モンゴル人民革命青年団内モンゴルの青年たちの先鋒であり、内モンゴルの自由と解放、モンゴル民族の統一と独立をその目標とする」
「あのときは本当に寝食を忘れて頑張っていました。自分たちの手でモンゴル人独自の国を建設する以上の夢はありません。至上の幸せでした。」
――1945年11月、ヤルタ会談によって内モンゴルの帰属はすでに決定されていたことを知る。
「私たち東モンゴル人民自治政府(1946年2月成立)の幹部たちは自分たちを犠牲にしようと決心したのです。・・・自分たち内モンゴルは独立できなくても、せめてモンゴル人の一部が独立できていればホームランドが出来ます。・・・自分たちを犠牲にして同胞たちの独立を側面から支えようと泣きながら決心したものです。」

 中国共産党が強調したトグスらの「罪悪に満ちた歴史」は、そのまま、民族主義者トグスにとっては輝かしい勲章であっただろう。

 重たすぎるから、もう書かない。        2011/03/06