日本の母親たち

GFSへ            2011/03/09
 年末に卒業生のクラス会に出た話もした。そのとき、前に座っていた奴が、
――センセイ、オレ、××の家に電話したらお母さんが出ました。
 と言う。
――そうか。××のお母さんは本当にいい人ぞ。
――そうなんです。オレ、ただ退屈してて、××をからかうつもりで電話したら本人はいなくてお母さんが出たんです。で、少し話して切ったんですけど、お母さんは「××を覚えてくださってて、ありがとうございました。」とおっしゃるんです。参りました。
 口には出さなかったけど、――いい経験をしたな――と思った。
 
 司馬遼太郎『人々の跫音』の中に出てくる狩野享吉(だったと思う)の母親の話は何回かしたはずです。
 狩野享吉はたしか日本海側の出身で、その母親は家族のために自分で布を織っていた。息子が遊学してからも、季節ごとに新しい下着や着物を織っていた。が、息子の縁談がまとまったとき、その機織機を叩きこわしたというのだ。そうでもしないと息子を思いきることができなかったのだろう。いや、たぶん本人は、そんなことを何も考えはしなかった。ただ、怒りの持って行き場所がなくて、織機に爆発させたのだ。・・・きっと極めて寡黙な女性だったにちがいない。
 今日は、もう一昔前になるが、みんなの母親の話をしたい。

 Gのお宅にはじめてお邪魔したとき、お婆ちゃんが出ていらっしゃって、「孫がお世話になっています」と畳に座って挨拶なさったときは、ただひたすら「へへーッ」。・・・参ったなんてもんじゃなかった。ニガウリと小振りだがやたらと旨い蟹を食わせてもらったのはその時だったか。
 及川の家にはじめて泊まったとき、腹一杯食わせてもらって、(その朝、チーズ・トーストなるものをはじめて食った)帰りがけに、「ありがとうございました。」とお礼を言ったらお母さんが、「いいえ、こちらこそ、リュウイチとお付き合い下さってありがとうございます。」と頭を下げられた。
 あのころの母親とはそういうものだった気がする。
 そういうもの、とは、自分の子供の幼稚さが危なっかしくて仕方なく、「こんなことで一人前になれるんだろうか」とハラハラしつつ、いまさら口出しもできずに、ただ黙ってみている。そういうものだったんじゃないかという意味だ。だから、せめて、息子の友人だという、これまたフラフラしてて危なっかしい若者を歓待してくれた。――友たちができるのなら、この子もなんとか生きていけるのかな――
 足立のお母さんの鰯のヌタも、小崎のお母さんの松茸ご飯も、金沢のお母さんの砂糖山盛り梅干しも、Fのお母さんの手打ちうどんも、シンちゃんのお母さんのソフトボール大の握り飯も、――食い物の話ばかりになるのは、筆者の個性の発露――オレのためではなく、(けっこうお母さん達にもててた気もするが)息子への愛情の曲折ある表現だったにちがいない。
 その人たちに、もう一度挨拶したい。
 もうすぐそれが可能になりそうなのが嬉しい。

別件
 晩飯を食いながらあれこれ話していた。
――もう、これからはアタシのことは考えんで好きにしていいからね。 でも、自分ひとりでどこかに行っていいち意味やないよ。