自分が誰かが分かってしまう年齢

GFsへ       2011/03/17
 何かしていないとイライラしてくるので、ともかく書きます。そうしないとまたテレビを見てしまいそうだから。
 先週、メールで「ぎっこんばったん録」の注文が届いたので、その人に渡した。ついでに見てみたら、まだ20〜30冊残っている。あとは、ばちぼち卒業生に送ろう。
 ただし、年上のイトコによると、「45歳くらいになってからでないと、お前の言いたいことが本当には分からないだろう」という。文学部に行くと言って父親から大反対されたとき、(「文学部やら行って就職できるか! 河原乞食になるだけぞ!」)「国語の先生になるち言え。」とアドバイスをしてくれた人だ。なるほどと、その通りに言うと、あっさり許可が出た。ウソも方便が、ウソから出たマコト、になってしまった。なにしろ、卒業前の一分間スピーチのときは、担任をにらみつけながら、「教員にだけはなりません」と宣言したのだから。・・・イトコは正確に読んでくれたのだなぁと嬉しかった。
 45歳くらい。それは、オーデンのいう「自分が誰かが分かってしまう」年齢を指している。それまでは「子ども」なのだ。自分が誰かが分かってしまった人間は、その代わりに「人生」を手に入れる。その、ハックスリーがもっとも価値があるという、人生とは、「鼻をほじくりながら夕陽を眺める」ようなもの、だとオレも思う。いや、そう確信する。そう思えるようになれて、「いままで頑張った甲斐があった」と思っている。
 そんな豊かな人生が戻ってきますように。
 このブログに逐次のせていた「詩もどき」がどうやら完成したので、明日にでもプリントをして、郵送します。

別件
 今津湾(いままで瑞梅川河口と言っていたが、正確には今津湾と呼ぶらしい)のカモの数がめっきり少なくなった。ただし、まだ、子連れのグループがいくつか残っている。たぶん、生まれるのが遅かったのだろう。かれらの旅立ちはもうしばらく後になる。