水鶏がまだいた。

今山便り 2011/03/27
 朝7時起床、7時半出発。
1,畑には霜が降りていた。
2,もとレンコン畑のため池から、鴨たちが道路を渡って出かけてい っていた。
3,ため池の土手には、鶉のような形をした、鶉より1,5倍はある 丸まっこい鳥たちが草の実を啄んでいた。
4,水鶏がいた。番でいた。子どもも2羽。
5,鴨の子どものなかには、まだ、おもちゃのような大きさのがいる。
6,鶯の鳴き声を今年はじめて聞いた。
 帰宅9時。
 朝食9時半。
GFsへ
 高校野球中継の合間に東日本地震津波救援キャンペーンの番組があり、新沼謙二が出ていた。絶滅危惧種お気に入りの歌手だ。いまでも偶にテレビで見かける。なんとなく、「食って行ける分だけ」働いているという雰囲気がある。
 彼のことでびっくりしたのは、そして何だか敬意を覚えたのは、ボドミントンの世界チャンピオンだった女性と結婚したことだった。その女性が出場した日本選手権をたまたまテレビで見ていた。肩幅がひろく下半身もどっしりした、いかにもパワー型の重量級選手だった。顔もごつくて、少なくとも芸能界とはまったく縁のない風情の人だった。「新沼謙二はやるやんか」
 当時の日本女子は代々世界チャンピオンを出していた。新沼夫人の前のチャンピオンは、小柄で細身の女性だったが、とびっきりの運動神経を持っていた。何年も世界選手権を維持していて、結婚して出産したあとに、また復帰して「ほんとうのチャンピオンは私だ」ということを証明してから正式に引退した。その最後の試合をどういうわけか見ている。決勝の相手(いや準決勝だったかもしれない)は白人で強打の持ち主だった。(ひょっとしたら彼女が「仮の」選手権者だったのかもしれない)その選手がバンバン徹底的に打ちまくる。それを日本の元チャンピオンが拾いまくる。試合は始めから終わりまで同じ状況がつづく。もちろんテニスではなくバドミントンなのだから、そのテンポは呼吸をしている暇がないくらいだった。一度などは、たぶんそんなラリーが20回ほど続いたのではないだろうか。そして、白人のスマッシュがネットにひっかかるか、アウトになったとき、彼女が笑い出した。とてもいい笑顔だった。「ウソ。もう、やってられないわよ」。横浜の男が、「相撲取りの負けたときの表情がいい」と言っていたが、そんな感じだった。勝負はあそこでついたのだと思う。
 その人の名前は思い出せないけど、顔はなんとなく覚えている。顔の面積も目鼻立ちもこじんまりとした、色白の美人だった。体重はせいぜい40㎏前後。たぶん、コーチとか監督とかにはならずに、完全に家庭に入ったのだろう、その後見かけたことがない。もちろん、オグシオなどが人気者になるよりふた昔も前の話である。その頃の日本は他国が「やってられない」と感じるほどに強かったのだ。
 その人の後を継いだのが、のちの新沼夫人で、湯○といったのではなかったか。試合中に喜怒哀楽をまったく出さないので、東北の人だなと思っていたが、たぶん当たっていたらしい。が、見ていて、「何が楽しいんだろう」と感じるほど、勝負のみに徹していた。彼女も引退後は表舞台に姿を見せない。
 もと世界チャンピオンが普通の人として、地元の子ども達にボランティアとして教えている国は、居心地のいい国なんじゃないかなあ。
 新沼謙二もバドミントンをやっていて、その女性を尊敬していたのだという。きっと温かい家庭を作っていることだろう。もし、あの女性が、夫や子どもに対してだけではお喋りだったり、感情を爆発させたりしていたら、さらに愉快だけどなぁ。
 
別件
 九州国際大付、波佐見、熊本工。高校野球の九州勢は絶好調。飯塚に帰るときは、ミニ・ラジオをポケットに入れて行こう。今日は老人ホームで津軽三味線の演奏会があるのだそうだ。