丹治愛 訳 『ダロウェイ夫人』

GFsへ 2011/03/28
 ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』を読んだ。というか、眺めた。うん。眺めた、というほうが当たっている。全体が、小説というよりは、超長編の詩という趣だった。「もし、これを原語で読めたら・・・」というのは夢物語だが、もし、90まで生きられるのなら勉強し直してみたい。それくらい訳語を通しても、視覚的な快さと重層性が音楽のように動いている。(こういう先住民の息子の感覚は信用しなさい。──訳者である丹治愛の功績か。)
 粗筋らしい粗筋はない。ある一日、さまざまな登場人物たちが、それぞれ現在と過去について何ごとかを考える。そして、それぞれの過去と現在とがないまぜになっていく。しかも、その登場人物たちはすべて、「私」として語る。「彼」や「彼女」はただ「私」が見ているだけ。その「彼」や「彼女」がまた「私」として語る。その、それぞれの「私」の登場はいつも唐突だ。だから、もともとつじつまを合わせようという発想なしに書かれたものだ。いや、作者はそういうことを拒否したところから書き始めている。
 そして、読後に残ったものは、登場人物の誰かではなく、ロンドンという街、あるいは過去の舞台となっていた田舎町だった。
 どこかで、これと似た小説を読んだな、と思いつつ浮かんできたのは、ジェームス・ジョイスマルグリット・デュラスだった。と書いて、さてジョイスとウルフとどっちが先に生まれたんだろうと辞書を引いてみたら、1882年(明治15年)〜1941年(昭和16年)。同じ年に生まれて、同じ年に死んでいる。何だか気味が悪くなってきた。ウルフは入水自殺。ジョイスは59歳でどんな死に方をしたのか。
 映画『めぐり会う時間たち』は、原作にさらに現代を重ねている。場所はニューヨーク(だったと思う)。その重ねかたが尋常ではない迫力をもたらしている。そんじょそこらの能力ではけっして出来ない仕事をしたのはなんという人たちなのか。あとでインターネットに打ち込んでみる。
 解説によると、もともとは「時間」(The hours)という題名の予定だったそうだ。映画はそのもともとの題名をそまま使っている。しかし、邦題は、お客さんを呼ぶためには仕方ないかな。なお、巻末についている写真では、ウルフは相当の美女であります。
 もう一冊なにか読んでみたくなった。もっと読んだらたぶん、「デュラスは相当に影響されているな」と感じることだろう。

※『めぐりあう時間たち』は、アカデミー主演女優賞を受賞していました。(金沢は最近、なにも言ってこなくなったなぁ)が、女優さんの名前も監督の名前も覚えられたなかった。さらに、原作があるらしい。それにも興味がわいてくる。

別件
 Gは夫婦で瀬戸内海の四国側にある李禹煥(うふぁん)の美術館にこれから行くか、すでに行っているらしい。こっちは、そんな美術館があることすら知らなかった。だんだん後輩から追い抜かれていく、この恍惚感よ。