日野啓三『流砂の遠近法』1995

GFsへ 2011,3,30

 東北の被災地の様子をテレビで見ているうちに、神戸の震災の年に日野啓三が書いていた文章を思い出した。
 そのときにもう、コピーを送ったはずだけど、今から打ち直します。

 日野啓三『変わらぬもの』
 「戦後50年」といわれるこの年のこの日ともなれば、そのことに関して何か書かねばならないのだが、いざ書こうと身構えると、書くことがないのではなく、余りにいろいろなことが乱雑に思い浮かび、しかもそのひとつひとつの記憶がそれぞれに強い隈取りと自分でも意外なほど根強い情念を伴っていて、折から連日35度の炎暑でタガのゆるんだ脳には収拾がつきそうにない。
 そんな取り乱した数日間のある日の燃えるような午後、致し方ない用事で私は自宅すぐ近くの私鉄電車の踏切に立っていた。車は通れない小さな踏切で、降りた遮断棒の前は私ひとり、と思ったのは間違いで、背後から一台の自転車が近づいてきて並んだ。郵便配達の自転車だった。
 赤い箱を後ろに積んだ若い郵便局員は、サドルに跨ったまま片足を地面につけて溢れる顔の汗をふいている。私は見知らぬ他人に声をかけることなど滅多にないのに、思わず声をかけていた。「この暑さのなかすいませんね。どんなに暑くても郵便は毎日届きます。」
 若い丸顔の局員は汗をしたたらせてニッと笑った。つづいて頭に浮かんだ言葉を口にしかけたとき、電車が轟音と熱風とともに走りすぎてきっかけを失ったが、踏切を渡ってからもその夜も翌日も、口には出さなかったその短い言葉が心に残り続けていた。
 「戦争があっても終わっても、郵便だけはちゃんと届いた」
 敗戦の日京城」(現ソウル)にいた私は、内地で敗戦前後も郵便が配られていたかどうかは正確には知らない。だが三ヶ月後に父の郷里の広島県の農村に引き揚げてきてから、郵便屋さんは畠のなかの小道を通って確実に届けてくれた。各地にばらばらに引き揚げた「京城」時代の友人や知人の手紙を。
 十年間育った土地を離れ、持てるものをすべて残し、友人たち全員と別れて、突然見知らぬ異境に強制送還された十六歳の私は、消え入りそうに孤独で頼りなかった。過去は消えたのだ、と毎日小鳥の首をひねる思いで懐かしい記憶を心のなかで殺した。そんな私をかろうじて支えてくれたのが、九州から千葉から金沢から届く友人たちの葉書と手紙だった。私も毎日のように手紙を書いた。その手紙で慰め励ましあうことがなかったら、翌春東京の旧制高校に受験に出かける勇気などけっして出なかっただろう。
 迷ってぎりぎりに出した受験の願書も合格の電報もちゃんと届いた。あらゆることが混乱しきっていたなかで、郵便だけは奇跡の銀色の線のようだった、当時郵便局の人たちもきょうの食べ物に追われていただろう。(とくに焼け跡の都会では)。でも彼らはほとんどの国民が茫然自失し、あるいはやみくもに興奮しているときに、ボロ自転車をこぎ、大きな鞄を肩に一軒ずつ探し歩いて、黙々と正確に、唯一のコミュニケーション回路を守りつづけた。
 そう書きながら、引き揚げるまでの三ヶ月間の「京城」での真空のなかのような日夜でも、電気と水道とたぶんガスも一日もとぎれることなく続いていたことを思い出す。引き揚げ列車に乗る順番は急に知らされる。そんな明日知れぬ極度の不安定のなかでも、電気や水道の日本人係員たちはその仕事を守り、韓国人係員もその仕事を続けていたのだ。(内地との郵便は途絶していたと思うけれど)
 歴史をつくり支えるのは「民衆だ」という、漠然としすぎる言い方を私は好まない。「民衆」や「市民」のなかにもあらぬ幻想にとりつかれて騒ぎまくる人、他人の作ったものを消費するだけの人びとがいる。私たちの生存に基本的な仕事、社会の運行に最低限必要な仕事をとくに劇的でもなく、実質的な役得もなく(つまりワイロをとらないで)日々正確に果たす人びとこそ、歴史の実態だと私は考える。戦争中も敗戦の日も戦後も、そういう人たちの仕事が切れ目なく続いてきて、きょうの私たちの生存がある。
 敗戦五十年目のことし前半は、現実的にも精神的にも日本は激しく揺れたけれども、眠れぬ夜が明けて午前四時四十五分になると、正確に家のすぐ前を走る京王井の頭線の始発電車の音が必ず聞こえてくることに、ほっと安心したものだ。あれを運行する確かな人たちがいる、と。
           (1995年8月『流砂の遠近法』)