ノーブレス・オブリージについて

GFsへ 2011/04/02

 数日前、書呆子への返事を書いたあと考えていることが、まだまとまらない。まとまらないままに、もう少し考えたい。
 「戦後の日本人は、ノーブレス・オブリージを失った」ことへの賛意と、その理由は前回書いたつもりだ。
 特権階級がなくなった社会に、ノーブレス・オブリージがなくなるのは当然のことであって、あとは、「精神的貴族」がどれだけいるかという、やたらと困難な状況だけがある。
 しかし、それをただ嘆くだけでは前に進みようがない。もともと特権階級をなくすことを大半の日本人は望んだはずだし、そのために多くの犠牲まで払った。そうしてできあがったこの超平等社会は、だから、われわれが望んだ社会なのだ。総理大臣も、東電の社長も、原子力保安委員会の長も、当然ながらただの人間であって、われわれ以上の人格も能力をもっているわけではない。そういうものを我々は彼らに要求したことがない。自分以上の存在をいっさい認めない社会。そういう歴史的にみて稀にみる社会を、われわれがみずから営々と作り上げてきた。
 いま、特権階級に代わるものといえば、タレントくらいしかいまい。そのタレントもまた、「普通」じゃないと認められない。だから彼らは最大限の努力を払って「普通」を演じつづける。「普通」を演じる能力に長けたものが成功する。しかし、その人びとは決してノーブルなわけではない。
 その一方、地方の私立学校を定年まで勤め上げた先住民の息子は、こうして何やら思索めいたことに専念し、その配偶者は古典芸能に集中していられる。ひと時代まえなら、いまごろは老後の不安を抱えながら、つてを頼って次の職を探してまわるしかなかったのだ。なんという超安定平等社会なのだろう。(浦和の住人がこれを読んだら、「いや、不平等だ」と言いたくなるだろうが。・・・いいや、君が自分で選んだ生き方なのです。)
 オーム真理教の信者に取材したことを報告していたのは、宮内勝典(かつすけ)だったろうか。まじめな若者が多かったという。地下鉄サリン事件のあと、社会にもどることを勧めたのに対して首を横に振った若者が言ったという。
──だって、テレビでいまの社会を見ていたら、社会の人たちが関心をもっているのは、お金と、食べ物と、セックスだけじゃないですか。
 そのバブル期の超平等社会に充満していたのは、ねたみ、そねみ、やっかみ、うらやみ。いや、ほんのちょっと前まではそうだった。
 特権階級を廃棄処分にして、「気高さ」だけは残そう、というのは土台無理な話なのだ。それが可能なのは、特権階級の雰囲気がまだ残っている間だけだ。明治の日本にはまだサムライという「精神的貴族」のイメージが残っていたのかもしれない。ただし、そんなサムライは、現実には千分の三ほどにもいなかった。が、千人に一人くらいはいたのかな。その人たちが時代を支えた。
 フランスのいちばんでかい空港は何という名前だったか覚えていないが、あの空港を作ろうとしたとき、用地買収は実に楽だったという話を聞くか読むかしたことがある。地主はわずか数名だったらしい。貴族階級を引きずり下ろしたフランスでは、その時すでにそれに取って代わる特権階級が生まれていた。ブルジョワのことだ。はしっこい貴族はみずからブルジョワに変身することで生き延びたはずだ。それは案外簡単なことだった。貴族の服装を捨てて庶民の服装、つまり背広姿になりおおせればいいと悟り、平気で実行した。それを拒んだ貴族は没落した。
 中国の共産党は王朝の後継者だ、という見方に賛成する。彼らが経営しようとしたのは国家などではない。世界だ。その中華思想を彼らは正当に踏襲しようとした。文化大革命の最中にも共産党幹部は満漢全席を悠々と楽しんでいたという。この中国人から聞いた話を信用している。なぜなら彼女はその話を誇らしげにして聞かせたからだ。「中国は盤石です。」
 欧州が統合されて暫くたったころ、「欧州には新たな貴族階級が生まれた。それがEU官僚だ。」という評論を読んだ。当然のことだろう。欧州統合じたいが、もともと貴族たちによって発想されたことだ。
 一方、この社会を見ていると、貴族制度は廃止され、財閥も解体され、新たな特権階級が生まれる芽どころか、その種子も残していない。
そうなっても週刊誌は、ただの国家公務員である官僚を特権階級であるかのように見なし、一昨年政権を奪取した政党もまた、たぶん、その週刊誌の見方を共有していた。ひょっとしたら、その官僚のなかには最後の精神的貴族がまだわずかに生き残っていたかもしれないのだが。
 一部上場企業の会長や社長も、「おさと」はみなただのサラリーマンにすぎない。かれらが守るべきなのは彼らが生きていくための仕組みなのであって、他のことに対するロイヤルティは先住民が職場に対して持っていた程度のものと大差ない。今回つくづくそう思えた。思えたし、もし彼らがこの社会に対してのロイヤルティを表現しようとしたら、完璧なバッシングを喰らっただろう。
──何様のつもりか!!
 いつの間にか、ここはそういう社会になっているのだ。

 なんだか長い話になりそう。
 今日は、その序文のみにさせていただきます。

別件
 裏山の山桜が咲き始めた。葉が先にでるし、小さな花なので目立たないが、ぼおっと全体が白っぽくなっていく。
 古文で、桜を雲と見まごう表現が多く見られるのは、山桜だ。ソメイヨシノしか知らない子どもたちにはイメージがわかないだろう。
 山桜に喩えた本居宣長の大和心もまた、自己主張を知らず、だれかに認められることを期待しもせず、黙々と義務を果たす人のことだと思う。