軍人という特権階級

 書呆子と電話で話していたら、「お前やオレのような独断と偏見に満ちた輩は・・」と言う。「オレのような」がくっついているから、まぁ受け入れるとして、おれハ結構おーそどっくすダト思ウケドナァ。むしろいまの世の中のほうが独断と偏見に満ちている気がする。
 たとえば、福島原発にフランスが乗り出してきたので気づいた。「地球温暖化ガス」対策に情熱的だったわけだ。たぶん、「二酸化炭素は親の仇でござるキャンペーン」には多額の資金援助をしてきたのだろう。
 じゃ、原子力発電のほうがいいのか、火力発電のほうがいいのか、「人よりコンクリート」で水力発電のほうがいいのか、太陽光発電のほうがいいのかと、どれかひとつに絞るべきだとは思わない。多様な組み合わせ(但し、国土の狭い日本で風力発電はヤバイらしいから一応除外)にすることが最もリスクを減らせる方法だと思う。その多様さのなかには原子力発電も含む。ただし、もう総電力の30%になっているそうだから、これ以上増やすのはやめよう。
 ね、あったり前のことを語り続けているつもりなのです。
 そういえば、「各駅停車」を書いていたころ、それを見た一回り若い国語の教員が、「まぁ当たり前のことやね」とのたもうた。もちろんそういう方々と『ぎっこんばったん録』とは縁がない。いわゆる芸術家的気質のつもりの方々は、ドヒャア、グワア、ビシーッ、がお好きなのだろうと思う。
 この頃、岡本太郎の再評価が盛んらしい。あの人の作品はけっこう好きだ。のびのびとしている。だけど、言っていることには興味がわかない。自分のしていることに意味づけをしようとしすぎた。いや、「芸術は醜くないといけない」と言うが、それは論理性をもたない。なぜなら、彼の言葉を「醜いものが美しい」と言い直したら彼は「まったくオレの言っていることを理解していない」と感じただろう。「オレの言いたいことは逆説ではなく、反語なのだ」。ともあれ、かれの作品がいまも残っているのは、美しいからなのです。
 
 前回言いたかったことをワン・フレーズにするなら、「貴族的階級のない社会でノーブレス・オブリージを望むのはただの無い物ねだりだ」ということだった。その続きを書くはずなのに、ぜんぜん前に進まない。
 も少し回り道をする。
 教員をしていたころ、生徒にむかって「誇りをもて」「プライドがないのか」と言い続ける人がけっこういるので、「それは言葉でいうことじゃなくて、生徒に優越感を持たせさえしたら自然に身につくよ」というんだけど、なかなか「なるほど」という具合にはいかなかった。むしろ、「優越感を持たせる」というのは正当な教育じゃない、らしい。「それ、おかしいでしょ?」まっとうなことを言っているつもりなのに、わざと奇矯なことを言っているんだととられる。
──なんでそんなに難しい方を選ぶの?
 新米の退職教員は、自分の生徒は特別扱いすることにしていた。そうしたら、あとは彼らが勝手に育つ。その方が省エネだったと今でも思う。だから、大分の若い友人から、「子どもは親や教員の知らないところで育つものだ」と言われると、その通りだ、すげえ、と思ってしまう。

 今日は、じゃ、今の日本にノーブレス・オブリージ的ものが必要だと考える者が、「貴族的階級」を作ろうとしたら当面は軍人という特権階級しかないのじゃないか、という話をする予定だったんだが、チョウド時間トナリマシタ。
 また次回。

別件
 老人ホームの近くにある公園まで、車椅子を押して花見にでかけた。ソメイヨシノ木蓮が両方とも咲いていた。3月はほんとうに寒かったのだ。
 9名のうち8名が参加。「わしゃ寝とく」というお爺ちゃん以外はみな車椅子か自動車で移動。老人ホームが空っぽになるので、「どげするね?」とヘルパーさんたちが困っているところに、ある家族が現れた。「すんまっせーん。××さんが残っとんしゃあから、向こうにおって下さい。すぐ戻ってきますから。」
 たぶん脱法行為だとは思うが、あんないい老人ホームはそう幾つもないと思う。
──わ、○○さん、車椅子の操縦が上手ですね。2級が取れるかもしれませんよ。