泥のように眠る

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 「泥のように眠る」という言い方がある。疲れ果てて熟睡するということらしい。それに合うのかどうかは分からないが、布団も何もなしでゴロっとひっくり返ったとたんに、そのまま眠ってしまった記憶が2度ある。
 1度目は、20か21のとき。
 あることがあって、当時住んでいた千葉のアパートを出て、長旅をすることにした。後輩が「部屋を使っていいか」と言うので、好きにしていいと返事していた。もともと鍵をかけたこともなかった。
 それから多分、沖縄に行き、もどってきてから日本海側を通って北海道に行ったんじゃなかったかと思うけど、はっきりしない。とにかく、長い長い旅だった。もし、その旅だとすると、その数ヶ月の間、旅館に泊まったのは2〜3度。あとは、大学の寮や、公民館や、友人のところで寝させてもらった。駅の待合室もまだ夜通し使わせてくれていた。リュックにはいつも薄くて小さくまるまる寝袋を入れて歩いていた時代だ。
 千葉のアパートにもどってびっくりした。実に見事に自由に使っていた。本も荷物もなにもなく、ただ階段状の工作物だけがあった。そこでお芝居をやって、もう「出ていけ」と言われているということだった。
 「そうか。じゃ明日出ていこう」と階段のひとつにごろっとなった。あとは朝まで何も覚えていない。あの日、日本中で自分が安心して夜を過ごせる場所はそこしかなかったのだ。たった一晩だけだったけれど。
 翌朝そこを出て、後輩に後片付けを頼む電話をして以来、その場所に行ったことはない。
 2度目は、34歳のとき。
 最初の学校をやめたあと、ひとりで久住に行った。平日だったので、ほとんど人が居らず、快適な山歩きだった。たしか、大船の頂上で、少し年上の人と挨拶したのを覚えている。「毎年、体力テストと思って来てますが、年々きつくなりますなぁ」
 ということは、長者原から大船にのぼって、法華院経由で久住に行ったのだろう。その帰り道、地名は忘れたが、昔、九大生が遭難したという谷間で突然すさまじい雷雨になった。これは怖かった。必死になって走って、すがもり小屋に飛びこんだ。無人だった。
 ともかく、乾いたものと着替えてたら神経が鎮まった。外では相変わらず雷鳴がとどろいている。「こりゃだめだ」と思ったら急に眠たくなり、ベンチに横になったところで記憶がとぎれている。
 目をさましたら夜だった。物音は何もしない。外に出てみると、歩き回れるほどの月明かりだった。目の前が三股山。「のぼってみるか」。山小屋に置いてある缶コーヒーを一個ぶら下げて、日の出を拝むつもりでブラブラのぼった。それができたほど月が明るかった。日がのぼりはじめると霧がでて太陽はみられなかったが、満足して小屋にもどった。
 自分としては、いい記憶だ。が、もう3回目はないだろう。もし、3回目があったときは、薄れていく意識のなかで「もう動きたくない」と考えそうな気がする。
 今年卒業した生徒には、「もし、老人ホームを抜け出した爺さんが桜吹雪の下のベンチで冷たくなっていた、というニュースをみたら、”ああ、ジッチャンは幸せに死んだとやな”と思え」と遺言しといた。
──人騒がせな爺さんやなぁ。

別件
 熊本の小国町に行ってきた。途中でいちばん気になっていた日田の大しだれ桜はもう盛りを過ぎてきたが、じゅうぶんに満足できた。標高がたかくなると、梅と木蓮と桜と辛夷花桃と連翹とがごちゃごちゃに並んで咲いている。ところが800メートルに達すると、まだ木の花はまったくなかった。
 それどころか、例年ならお彼岸の前後にある山焼きのあとに一面が畠みたいになり、多くの人が摘みにくる蕨がまったく姿を見せていない。そのかわりに土筆がちょうど摘みごろ。この冬は本当に寒かったのだ。
 それでも、ヨモギはけっこう見かけたし、福寿草の花は咲いていたし、あとひとつ、食べられそうな丸っこい薄緑色の葉っぱは何だったのだろう。かんでみたら、酢味噌和えにするとうまそうだった。「野蒜」という名前が浮かんできたが、当たっているのかどうかは分からない。
 小屋のまえに町がわざわざ観光客用に作った芝生公園はまるでプライベート・パークみたいで贅沢な話なのだが、そこはで木の根元が片っ端から掘りくりかえされている。昨秋は山の木にほとんど実がならなかったと聞いている。イノシシたちが食い物をもとめて下りてきていたのだろう。あの寒い冬を無事に生き延びられただろうか。
 庭には兎の糞が数カ所。こちらは大丈夫そうだ。
 福岡にもどってみると、下の公園のソメイヨシノも裏山の山桜もほぼ満開。窓のまえの残雪しだれという名の花桃も明日には満開になるだろう。この花の白さは、写真では分からないだろうと感じるほどに現実離れしている。長谷川りん二郎流に言うなら、「奇蹟」としか言いようがないくらいに、白い。「白」というのはもっとも自己主張の強い色彩なんだと教えてくれる。というよりは、「白というのは色彩なのではなく物体だ」という気がする。
 一度見にきてくらはい。