明け方の刹那の夢

暁の一瞬の夢

ケーキ職人を目指して修行中の少年の日記には、
レシピや
職場での会話や
親方の言葉や
自分をしかり励ますことばや、
その日学んだこと、
失敗したこと、
浮かんだアイディアがいっぱい詰まっている。
自分のケーキをつくり、
自分の店をもつ。
そのためなら苦しいことなんか何ひとつない。
日記には言葉だけでなく、
ケーキの形や色、
構えたい店の厨房、
ファサードの絵が細かく丁寧に、
いかにも食べたそうに、
いかにも働きやすそうに、
いかにも入りたそうに描かれている。

その日記はときどき
「ボクにはケーキしかつくれない」ということばで締めくくられる。
その誇らしそうなことば
「ボクにはケーキしかつくれない」
そのことばが書かれる回数が次第にふえてくるに従って、
レシピや
会話や
親方のことばや、
学んだこと、
失敗したこと、
アイディアや、
絵が減っていく。
そして、いつのまにか、
ただ「ぼくにはケーキしかつくれない」
の一行だけが書かれるようになったのは、1940年代初めごろのことだ。

「ボクにはケーキしかつくれない」
毎日同じことばだけが書きこまれる。
それから、
日記がただの空白になってからしばらくして、
彼が海兵隊に入ったという噂を聞いた気がする。
それからまたたくさんの時間がたって、
そんな菓子職人見習いがいたことをみんなが忘れてしまったころ
彼が太平洋で戦死したらしいということを教えてくれたのは誰だったろうか。
すべてはただもうろうとしている。
なぜなら私が実際にみたのは、いや、見たような気がするのは、
「ボクにはケーキしかつくれない」とだけ書かれたノートだからだ。

そのあとは空白のノート。
何枚めくっても空白のノート。

「ぼくにはケーキしかつくれない」
2011/04/06

別件
 以前から気になっていた立原正秋の『冬のかたみに』を読んだ。読み終えてまだ余力があったが、「もう今日はなにもしまい」と感じた。3章に分かれているのだが、個人的な好みは第2章。もし読むなら、そこから始めるという手もある。小学校低学年だった作者がすごした慶尚北道安東郡西後面、臨済宗天燈山鳳停寺は「ふらう」の旅の目的地としてふさわしいかもしれない。
 そのこととは別に、第3章で、日本で友人となった男を寺に訪ねるところがある。その母がもてなしに作った料理は以下の通り。
 山独活の酢味噌和え。蕨の胡麻和え。たらの芽の胡麻油炒め。里芋の煮っころがし。干した芋がらの味噌汁。木綿豆腐の煮付け。
 翌朝は、早起きにた友人が堀りたての筍を馳走してくれる。
 国東半島文殊仙寺。洛外花脊の寺谷荘。木之本の長治庵。また行ってみたいし、また、新たな出会いを経験してもみたい。
 あとひとつ、自分の守備範囲ではないと思っていたが、立原正秋の描く臨済宗には生活のにおいがある。日本に伝わってきた仏教宗派のなかで、あるいはもっとも「新興宗教」的でない宗派なのかもしれない。(最近、キリスト教イスラム教も仏教も、人類史的にみるならばいずれも、要するに新興宗教なのではないかと言う気がしはじめているのです。どういうのか、それらの宗教は世界を内蔵していない。世界を内蔵するとは、その大半の無意味なものを内蔵するということです)少し、勉強してみる。
 そういえば、世界史の安武幸文先生(数年前にお亡くなりになった)の発案で、精進料理を楽しむ会を世話してくださったのは黄檗宗の寺だった。実に楽しい会だった。あの時のことで忘れられないことがある。
 調子にのって、職場の話をしはじめかけるとすぐに安武先生からとがめられた。
──○○先生、こんな楽しい席で無粋な話はやめましょう。
 なんという幸せな時間をもったことだろう。