渡邊直己歌集

GFsへ
 「泥のように」眠ったときのことを書いたら、思い出した歌集があるので、報告します。
 ただし、GやFには一度報告した記憶がある。
 渡邊直己の戦陣歌です。自分がそれを知ったのは、たまたま「水のいのち」のCDを購入したらそのなかに、この人の歌を合唱曲にしたものがあったのです。そのCDを探してみたけど見つけられなかった。
 明治41年生まれ。昭和14年戦死。32年の生涯だった。
 応召まえに、

時雨来れば谷の村居は夕はやく飯食ふらしもけぶる灯に見ゆ
遅れたる汽車待ち居れば野呂山の襞かげろひて海にのびたり

 というような歌をすでに詠んでいる。

 大正15年19歳 広島高等師範学校文科第一部(国漢科)入学
 昭和6年 24歳 呉市立高等女学校教諭
 昭和10年28歳 アララギ会員
 昭和12年30歳 7月広島歩兵第11聯隊補充隊に少尉として入営
        12月山東作戦参加
 昭和13年31歳 1月済南入城
7月北支より中支に向かう。
8月南京着
9月マラリアにより野戦病院に収容
        12月中隊復帰 
 昭和14年32歳 8月河北省天津県の戦闘にて戦死
 
 応召の時の歌には次のようなものがある。

涙ぐむ母に訣れの言述べて出でたつ朝よ青く晴れたる

 以下、戦地での歌をひろってみる

戦ひの終りし戦線に秋立ちて輜重隊が行けり遙かなる道を
幾度か逆襲せる敵をしりぞけて夜が明け行けば涙流れぬ
戦ひは竟に不可避と知りつつも夜襲に向かふ我が道くらし
榴弾に打ち抜かれたる支那兵が泡立つ血潮吐きて斃れぬ
血達磨のごとく斬られし兵ありき突撃せる敵の塹壕の中に
秋深む山西の野に闘ひて獣の如く今朝も目覚めぬ
照準つけしままの姿勢にて息絶えし少年もありき敵陣の中に
炸裂する砲弾の中を蟻の如く逆襲する敵の数限りなし
泥のごと兵は疲れて眠り居り月欠けて寒き黄河河畔に
強行渡河の夜は上弦の月照りて流氷白く渦巻きて居りき
死を決せし心は言はず鉄舟に居並ぶ兵のしづかなるかも
鉄兜打ち貫(ぬ)かれたる部下を一夜トラックに守りて進撃を続く
吾が襲ひし部落赫々と焔あげて朝明けの中に燃えて行きたり
未だ血の滲みて臭ふ丘越えて烏おびただし十里舗の道
あくまでも生きむ思ひは持ち続け麦青む土を今日も過ぎ行く
故郷の畳に眠る夢さめて白河の水をしばし見て居り
腹部貫通の痛みを耐へてにじり寄る兵を抱きておろおろとゐき
狙撃せし八百の直射弾が命中して屋上の敵がころがり落ちぬ
銃眼に見ゆる葭原日に戦(そよ)ぎ今日も遙かに雲光りたり
赤々と部落に咲ける葵の花を麦熟るる花と支那人は言ひき
匪影なしと鳩を放ちて泥屋に三時間は腐りたる如く眠りぬ
吾が後に召されて既に死せる友数へつつ何かはるかきが如し
たまゆらにゆらぐ心を耐へ耐へて水清き故郷の山を恋ふかも

只管(ひたすら)に吾が帰る日を待つと云ふ父に訣別の文書かんとす
生きて又帰る日無けむほの黒き甲板に吾酔ひ痴れてゐぬ

やがて行く戦野を地図に探しつつ疲れて眠るアンペラの上に
アララギの八月号は竟に見ず戦は進むか嶺山山脈に
頑強なる敵陣に遮二無二突っ込みし夢を見たりき疲れし夜半に
歌作り戦ひて来しひととせや雑草中に立ちて慨きぬ
大きなる機構の中に我ありて運命のごと戦ひて行くか

新しき支那の力を感じつつ中山陵を下る暑き光に

掩蓋の壁に記せる文字見れば十二日午前一時にこの陣は落ちき
夜もすがら咳きゐし兵がその朝伯?の如く死にて居りき

病みてあれば故郷の家に母とゐて茶漬け食ひたる夢を見たりき
戦線をさがる吾が傍にいたはりの言かけて既に君は亡きかも
午後三時の葛湯を今日も待ち侘びて幼児の如く目をあきて居り

榴弾に似たる氷の裂音をききつつ急ぐ夜暗き道を
不気味なる部落いくつか過ぎ行きて蘇橋鎮と思ふ黒き塔見ゆ
墓地かげに伏居る兵はぬくき日に鼾をたてて眠り始めぬ
敵包囲に落ちたりと思ふ半刻あまり白々と伏しし心言ひ難し
蠢動する敵匪もとめて不気味なる部落に眠る幾日ともなく
南孟鎮に苦闘する北地区隊の救援に向かふ星のなき夜を
天津より送り来りしパイ缶の氷れる汁を飲みて寝むとす
涙して吾を迎へし村人に飢ゑて歩けぬ女雑ざりぬ
砂塵あげて荒ぶ夜風に赤々と豊田中尉を焼く火に対ふ
生活の凄まじき底流を感じ居り天津に群るる支那人の中に
敗国の彼らが群るる天津の東馬路をいく圧さるる如く
東西留に巣くふ便衣を一人残さず殲滅をせり三十二名
?(かん)の中にひそみて最後まで抵抗せしは色白き青年とその親なりき
壕の中に座せしめて撃ちし朱占匪は哀願もせず眼をあきしまま
涙拭ひて逆襲し来る敵兵は髪長き広西学生軍なりき

或時の戦線が奇妙に歪められ断片となりて浮かび来るかな
すでに三年戦ひ来つつ麦秋の夕はこほし故里の山
矢車の花送り来し教へ子が嫁ぐ悲しさを言ひて来にけり
大陸に夏迅きかもかぎろひて麦なびきたり海の如くに
幾度か征服されし漢族が生きつぎて行く大河の如く
さまざまに支那を説きたる書はあれどその一つも肯綮を衝けるはあらじ
徳治主義と言ひ専制主義と言ふ共に何ぞ空漠たる

校庭に泰山木も咲きつらむ三年を遠く戦ひて来し
数々の思ひも今は水ぬるむ春の光にうつつともなし
教育よりも祖国防衛の本能なりと吾は言ひ切りぬ反対者多かりき

『渡邊直己歌集』(石川書房)より──後序は土屋文明

別件
 「これが最後かもしれないから」と母親を自宅に連れてきて、父親の七回忌法要をしてもらった。母親はちゃんと、そこが自宅だと分かった。が、義兄をみて「あの人だれね?」。坊さんに至っては「この人ほんとうに坊さんね?」先代のことを覚えているのか、先々代なのか。それは訊いても無駄である。
 昼食をすませて、立ち上がらせようとしたところで、左腰がグキッ。今朝は靴下をはくのも大変だった。とても二級の資格をとれそうにはない。