エリート教育ちゃなんですな?

GFsへ 2011/04/12
 何回まえか勘定がわからないが、ノーブレス・オブリージについて書きながら、「いったいエリートに必要な能力ちゃ何か?」と考えはじめた。「エリートに必要な能力」=「リーダーシップ」というのは一種のトートロジーに過ぎない。ましてや、「なにも訊かずに黙ってオレについてこい」式のものは最悪のリーダーだと思う。
 「日本はリーダーを育てなかった。」・・・ハイ、その通りです。  「だからエリート教育が必要だ。」・・・ハイ、その通りです。
 で、必要とされるエリートってどんな人間ですか?
 「リーダーとなるのにふさわしい人間」
 じゃ、リーダーとなるのにふさわしい能力とは何ですか?
 「リーダーシップ」。
 もうやめます。
 で、新米退職教員はまず、具体的にエリート教育に要求される学習内容を考えた。結論は一点に絞る。
 「ものごとの全体を、その外側から見たらどう見えるのかを説明できる能力」と「ものごとを内側のある地点から見たら、全体がどう見えるのかを説明できる能力」の両方を育てる、のがエリート教育の基本に思える。
 リーダーとは、その二つの視点を持った上で、いま自分たちは何処にいて、全体のなかのどういう役割を果たそうとしているのかを成員に納得できるように説明する能力をもっている人間だ。納得できる説明とは、出発点と終点を明示することだと思う。もし、成員がその出発点や終点や、その行程に納得できなければ、リーダーシップの発揮はできない。
 今回の被災地からの報道を聞いていると、「政府は何ができないのかをはっきり言ってくれ。そしたら、国ができないことは自分たちでやるしかないと計画が立てられる。いまのままでは何の計画も立てられない。」と発言したフツウの人がいた。・・・その線引きをするのに必要なのは、綿密な思考能力ではなく、むしろ逆の大胆に、意識的にショートカットする能力なのだ。
 英語であれ、数学であれ、その出発点と終点を示そうとしているだろうか。あるいは、自分たちを外側から見る目を養っているだろうか。
 また原発の話になるが、アメリカが80㎞の外に出るよう指示し、またフランスが国外に出ることを勧めたのに対して、「理不尽」だとか、「人でなし」だとかいう感想を聞く。が、それぞれの国としては当たり前のことを指示しているに過ぎない。「最悪の事態」が回避される見通しが立つまではできるだけ近くにいるなという指示を出さない国は、自国民の生命と財産にたいして無頓着な日本くらいだろう。
 少し突飛すぎるけれど、インドネシアを日本軍が乗っ取ったとき、オランダは居留民に対して、「殺されるくらいならレイプされるほうを選ぶべきだ」と公にアドバイスを送った。送ったのが総理大臣なのか、司令官なのかは知らない。つまり、「命がけで貞操を守ったとしても、本国に帰ってきたとき、どうせ、あなた方を日本兵に犯された人間としか人は見ないよ」と、そのレッテルを現地の者にまず知らせたわけだ。その人物には決断力があった。その決断力とは途中経過はすべて捨象して終点を見たところから現地点を測る能力のことだ。分かりやすく言うなら、おりこうさんたちが一番嫌うショートカットをする能力、行動する者にはかならず必要とされる能力だ。「考えていて仕事ができるか!」これは、若い時分、企業戦士だったときの義兄が、先住民の息子を怒鳴りつけた言葉だ。が、たぶん、今の学校教育カリキュラムではその能力は一顧だにされない。教え込まれるのは、論理、論理、論理。
 ミッドウエー海戦のとき、日本艦隊発見の報を受けた指令官(名前が出てこん)は即座に発進の指示を出した。ただしその距離は往復ができない距離だった。つまりその指示は特攻を意味していた。「ともかく行け。あとからお前達を追いかけるから」。現実には、攻撃に成功してもどってきたパイロットの大半は海に着水してボートに救われた。「時間が勝負の鍵だ」という司令官の判断は正しかった。もともとのマニュアル通りのことをやろうと努力していた南雲艦隊は、つまり「陸上攻撃用の爆弾でも空母の甲板に落としたら何らかの効果を期待できる」とショートカットできなかった司令官、もしくは命がけでそれを進言する参謀を持たなかった日本は大敗した。
 ミッドウエーのときだったか、その後だったかは忘れたが、アメリカの攻撃機は、空母以外の軍艦に対しては上から爆弾を落下させる方法をもうとらなかった。船を沈めるための攻撃なのだから、横っ腹のに穴を開ける方が効果的だ。だから魚雷はもちろんだが、急降下爆撃も水面に落として、ちょうど平たい石を投げて水面で何回跳ねさせることができるかの遊びの要領で横っ腹に当てる練習をさせていた。そのほうが命中率があがり、しかも効果的に敵艦の戦闘能力を失わせることができた。「攻撃は片側からのみやれ」そのほうが沈みやすい。
 きな臭い話ばかりになるが、20年ほど前か、北朝鮮のテロのニュースをテレビで見ていたとき、福岡高校が2度全国優勝したときの指導者門田久人先生(明治や釜石が日本一になったとき、松尾とコンビを組んでいた「ヒゲの森」の恩師)が、──この人の言うことはシンプルだった。「勝たせないと教育は成り立たん。オレはラグビーで生徒を勝たせる。お前は勉強で勝たせろ。」──「あのころの日本は外から見たら今の北朝鮮のように見えよったろうな。」とおっしゃった。なるほどと思った。(つまり、またもや自分のなかでソートが起こった)9,11のニュースを見ながらそれを思い出した。その日本に、少なくとも公式にはアルカイダに対する同情はほとんどなかった。
 自分たちを外からみる能力。他人からどう見られているかを説明する能力。そして、そこから今の地点を逆算する能力。いま何をしなければならないかを決断する能力。
 吉田満戦艦大和の最期』を読んでもっとも感動したのは、出撃後の艦内で自分たちのしようとしていることについて尉官と下士官たちが激論をするところだった。著者によると、「この船は日本が犯した愚行の象徴としての役目を果たすんだ」という尉官の言葉に下士官達は沈黙したと言う。
 と、ここまで書いてきて、それらの能力は教室の授業で身につくものではない気がしてきた。つまり、エリート教育というのは、教室で実践するものというよりは、学校で、キャンパスで実践されるもののようだ。大切なのは教室ではなく、もっと広い空間だ。わが嘉穂の場合でいうなら、あの町全体が校庭のようなものだった。あの町そのものが「井の中の蛙」にとっての「井」だった。お茶の水も早稲田もそうだったろう。
──子どもは、親や教師の知らないところで育つものだと思います。
 渡り廊下で出くわせた隣のクラスの担任だった松尾等先生に、突然猛烈に文句をつけた(いまの自分の言葉で言うなら、「先生は生徒をスポイルしている」と言いたかったのだと思う)生徒の言葉を最後まで聞いて、「いま言うたことは何かを読んで言うたとか? 自分で考えて言うたとか?」と質問し、生徒が「自分で考えて言いました」というと、「なら、許す」とだけ行って職員室に戻っていったあの学校には、エリート教育の雰囲気が残っていたのだ。
 九大に毎年200人以上の合格者を出すことで世間的な信用のある学校に移動させられた舛添公夫先生は、職員会議で、「この学校は、二等兵を育てたいのか、大将を育てたいのかはっきりさせろ」と発言したそうだ。(それを聞いた無津呂先生は、舛添先生と友情をもった)ただし、そのようながちがちの生徒指導をさせていた校長は舛添先生を手放そうとしないだけでなく、彼のわがままを最大限に認めていた。
 そう、なんだ。エリート教育とは、教え子を(スポイルすることとは逆の意味で)特別扱いする教育のことなんだ。どうもそんな気がする。とするとつまり、「ノーブルであれ」と要求することがエリート教育なのかなぁ。・・・ショートカットのしすぎかなぁ。
 どうやら、またもや袋小路にはまったようなので、いつもどおり強引にワン・フレーズ化して、いったん締めくくります。
 リーダーに必要とされる能力とは、ものごとや状況を総合し、さら成員個々のの仕事を特化する能力のことである。
 
別件
 絶滅危惧種いわく、
──仕事をやめてから、目が輝いとる。
 やはり根っからの遊び人なのだろう。すくなくとも粗大ゴミ扱いは受けずにすみそうだ。