アタシはこの人に一日でもながく生きてほしいと思ってるんです

 
GFsへ 2011/04/13
 今日は何もしないつもりだったけど、一筆啓上。
 被災者の姿をテレビでみていると、不遜ながら、「家族ちゃいいもんやなぁ」としみじみ思ってしまう。友人のタッチンにいたっては、「新聞の写真を見ているだけで涙が出てくるので、その度に嫁さんが花粉症用の目薬を渡す」という。では、タッチンと新米年金受給者の共通点は何かというと、子どもがいないことです。
 が、今日は、子どもたちの話ではなく、テレビでみた老夫婦の話をいくつか。
 いつ頃だったか、東北の山村で暮らす老夫婦が出てきた。ご主人は寝たきり。意識もほぼなさそうだった。それを自宅で介護する老夫人と往診しつづける若い医者が主人公。そのなかで、老夫人がつぶやいた言葉にびっくりした。
──こんな歳になって笑われるかもしんないけど、アタシはこの人に一日でもながく生きてほしいと思ってるんです。
 びっくりしたのは、後半の部分だったのだろうが、時間がたつにつれて、前半の部分にものすごいインテリジェンスを感じたのだな、というふうに思いはじめている。
 そういうインテリジェンスは抜きにびっくりしたこともある。
 北海道か青森か、日本海側かのもう80をすぎている漁師夫婦の話だった。毎朝、奥さんは二人分のお握りを作って、いっしょに漁船に乗り込む。ご主人が漁をしている間、奥さんは小さな船室とも言えない空間でじっとご主人を見守っている。
──あの人が落ちたら、わたしも海に飛びこみます。
 これは、純愛などということばでくくれることでは絶対にない。かれらは海のうえでたった二人きりになっている。それを至福のときだと形容するのもまちがっている。21世紀の先住民的あり方、なんて言いたいのでもない。ただ、そこに時間が凝縮されているのを感じた。二人にとってその時間がいっさいなのだと思う。もしその世界から一人が欠けたらもう世界そのものが消える。
 も少し若い夫婦が登場したのも同じ番組だったかもしれない。漁船で日本を周回しつつ、そこここの漁港で水揚げしながら生活していた漁師が船からあがって、自宅で暮らしている。その間、ひとりで子どもたちを育てあげた配偶者が次のように言った。
──この人はどう思っているかは知りませんけど、私はやっとこの人と毎日いっしょにいられて嬉しいです。
 その間、夫は窓から海を見ながら黙ってタバコをふかしている・・・・というのは新米年金受給者の演出だった気もするが、そっぽを向いていた男にシンパシーを感じた。
 昨夜は、山形県の山中にある、たった2軒の集落だった。その80前後の夫婦は5人の子育てをしたあとも、集落に残って同じ場所で暮らしているのだという。冬場の必需品がスノーモービルだったのには驚いたが、人力でやるしかない雪下ろしは日課のようにがつづく。
 その二人の顔のえもいわれぬ美しさ。
 なぜ倍賞智恵子の顔なんか見なくてはいけなかったのか、その演出は根本的に間違っていた。いや、それだけではなく、ナレーションも邪魔だった。どちらもせっかくの素材をだいなしにしかけた。それでも見てしまったのは、ただひたすら二人の美しさと、生活感の豊かさのせいだと思う。
──おじいちゃんは一人になっても暮らせるかもしんないけど、オレはおじいちゃんがいなくなったらもう暮らせない。
 待てよ。どっかで似たセリフを聞いたことがある。
──そっちは、アタシが死んでも生きていききるやろ?
 先住民的存在はいまも生きている。

別件①
 今年の桜は葉が出てきはじめてもまだ満開だ。花桃もさすがに輝きはなくなったが、まだ真っ白い花房をたっぷり垂らしている。
 アメリハナミズキも咲き始めたし、ツツジもちらほら開き始めているのだからもう初夏なのだろうが、それにしてはいつまでも寒い。
別件②
 陽子先生の歌集が何年ぶりかに戻ってきた。
 そのなかから四首選んだ。

ベランダに作る朝顔あさあさの眼をさまさしむ今朝は二輪に
落つ滝の頭芯にひびく心地よさ烈しきものに触れで久しき

君が訃を知りたる封書卓の上に梅の一枝と三日動かず
乏しさの暗夜行路に微かなる灯を点しゐし人は逝きたり