泥縄式が得意な日本人

GFsへ 2011/04/15
 久しぶりに文芸春秋を買おうかと思っている。(図書館に備えてあるなら、それですませるが。)
 池田彰がなにやら宗教について語っているらしい。「そんな男だったのか?」という興味がわいてきた。が、それは読んでからの話。
 同じ今月号に内田樹が東日本震災について書いているらしい。その見出しが「神戸は自然災害だが、今回は人災だ」と読み取れるものになっている。宣伝だけを読んでものを言うのもどうかとは思うけれど、「そりゃ違うやろ? 神戸が自然災害なら今回も自然災害。今回が人災なら前回も人災」だ。それが常識的な判断というもんじゃないですか?
 ものごとを対象化してみるというのは、けっこう有効な方法ではあるし、それによってわれわれの知は昔より遙かに豊かになった。しかし、対象化は類似化とパラレルであることによってはじめて有効性をもつ。「あれかこれか」ではけっしてものごとは前には進まない。
 けっこう面白い人だと思っていたのに、いつのまにか並みになりつつあるのかもしれない。(すんまっせん。中身も読まずに)
 対象化は類似化とパラレルであることで有効になるとは、たとえば次のようなことです。
 いま、原発事故への対応でイライラしっぱなしだ。技術者たちは泥縄式に原子炉を安楽死させようとしている。それしかあるまい。それは東電の責任というよりは行政の責任だ。いずれ政府の中心人物は東電経営者と並んで刑事法廷に立ってほしい。(責任の所在をぼかすやりかたはもうとるべきではない。)そのとき、歴代の原子力行政の責任者(総理大臣になるはず)も同じ被告席につかせよう。なぜなら、想定の範囲ぎりぎりのことしか準備させなかったのは行政側だからだ。放射能の基準値は「健康に害がない」数値の百倍に設定したという。なのに原子炉は「害がない」範囲の百倍どころか、想定の範囲内にしか設定しなかった。しかも、想定外のことが起こったときの準備はまったくなされていなかった。
 アメリカは、もう一台冷却装置を準備しているという。フランスやドイツは放射能の危険がある場所で作業ができるリモコンのロボットを開発しているそうな。
 それにたぶん、アメリカは万一の事故に備えて、前もって全国的な組織を作りあげている。アメリカのどこであれ、事故が起こったときはその専門チームが即座に大統領命令のもとに全面的に対応にあたる。「そこまでは準備しとるまい」という人には、アメリカという国が分かっていない。というか、そういう準備をしない日本が特異な国なんだと思う。
 話をもとに戻す。
 現在の泥縄式の「原子炉安楽死作戦」を見ていると、昨年だったかの探索衛星「はやぶさ」の地球帰還をつい思い出してしまう。そこで技術者たちがしていることはほとんど一緒にみえる。
 「はやぶさ」のときは、はらはらどきどきして、無事帰還させた技術者たちは一躍ヒーローになった。が、その過程はまさに泥縄式だった。ただ、平和的ミッションだったからもてはやされただけだ。
 日本人は泥縄式が得意なんです。行くところまで行って、それから何とかつじつま合わせをしようとする。(お前の文章もどきも同じじゃないか、という声が聞こえてきそうだ)部分を修正していけば全体性を保てると思っている。現実には部分を修正しているうちに全体そのものが破綻する場合があるのに。・・・この前の戦争だってそうだった。泥縄式では収拾がつかなくなって、けっきょく降伏する能力まで失ってしまった。その間の責任者が誰だったのか、いまだによく分からない。わからなくとも何とかなるようなシステムを先に用意して、あとは行き当たりばったり。・・・そういう発想しか出てこないのだろう。──だから日本はダメなんダア、と言ってしまう気にはならない。しかし、原発とか戦争とかは例外的事項でしょ。それを例外にできないのなら手を染めるべきではなかった。
 神戸の震災と今回の震災を対象化するなら、その規模がまるで違うことが第一。原発問題が加わったことが第2。自然災害か人災かなどと今偉そうに喋るときではない。そのかわり、人災だと公言したチシキジンは、一段落してからきちんと、人災を引きおこした当事者を刑事告発する責任がある。
 ここからは別の話になる。
 これだけ事態が深刻になっても、いまだに東電への丸投げが続いている。自己責任、なんてきいたふうなことを言っている場合じゃないのに、北電や関西電力などの他の電力会社の技術者たちがチームを編成して支援しているという話を聞かない。申し出はあったのかも知れないが東電側が「自分たちでやる」と言ったのかもしれない。いや、「東電だけにやらせる方がうまく行く」という判断が政府や原子力保安なんとかにはあるのかな。だとしたら、日本の場合はけっこうそうなのかも知れないとも思う。
 この国の人は、「自分たちだけ」が好きなのです。この国の集団主義とは「自分たちだけで小さくかたまる」ことなのです。そとがわを信用しないのです。そしてうちがわだけで集まって、被害者意識にこりかたまったとき、最大限の力を発揮するのです。たぶんリーダーなんか大嫌いなのです。(でも、このことは、日本人に限ったことじゃないのかもしれない)
 なんか、そんな気がするなぁ。
 いや、そのなかにもリーダーシップはある。成員をその気にさせる能力もまた大切なリーダーの要素だ。その「成員をその気にさせる」やり方、というか手順は、その文化によってちがう。ちがうけれど、しつこいけれど、原発のような人類的課題については、「行き当たりばったり」も「自分たちだけ」も完全にまちがっている。そういうやり方しかできないのなら、潔く諦めて、別の方法を編み出すべきだ。そういう段階になると、この国の人はまた不思議な能力を発揮するのです。
 けっして捨てたもんじゃないと思うよ。いや、今回のことが、人類規模の福音をもたらす可能性だってある。ただ、道のりは長そうだなあ。
 実は「ショートカットする能力」のほかに、「勘違いする能力」や「忘れる能力」も大切なものなのに、いまそれらはただ「無能」の典型みたいになっている。そのことに関してもいつか書いてみたい。

別件
 三浦雅士『人生という作品』(NTT出版)は、はっっっちゃめちゃに面白い。今週はこの本で終わりそうだ。全部つき合う時間はないから、どれか一つを選べというご注文なら、とくにお勧めなのは、白川静について書いている部分。も少し時間があるなら、172ページまで。
 著者のことを「若手」だと思っていたのに年上だった。というか、ほぼ同世代。いまさら逆戻りする気はないが、彼の言っていることは、自分自身を振り返らせてくれる。

特報
 散歩の帰り、下の公園でハルカちゃんが友だちのカンナちゃんをつれて駆け寄ってきた。
 カンナちゃんの第一声
──おじいちゃんの犬かわいいね。