九州産業高校の当時の校長が亡くなった

GFsへ 2011/04/17
 最初に教員をはじめた九州産業高校の当時の校長が亡くなった。後輩が報せてくれたので、昨日お通夜に行ってきた。懐かしい顔にたくさん会えた。その人は高校の大先輩でもあった。
 27歳のときだったと思うが、そろそろ福岡に帰らねばなるまいと思っても、就職する手だてがなかったので、7月に県の教員採用試験を受けた。たしか当時は年齢制限が28歳までだったと記憶している。試験を受けて東京にもどってまた働き始めた8月に、「9月から働かないか?」という電話がきた。そんな学校があることも知らなかったし、場所もわからなかったが、チャンスだなと思ったので会社に言うと、「お前の望みがかなうことは喜ぶ。しかし、いますぐやめられたら会社は困る。あたらしい人間を雇うから、そいつに仕事を教えて引き継いでから辞めるのが男のスジだろう」と言われた。別にたいした仕事をしていたわけではないはずだが、道理だなと感じたから学校には 「11月からなら働けるが」と返事をすると、それでもいいと言う。結局10月なかばに面接を受けるまで、電話のやりとりだけだった。
 福岡にもどった次の日、学校にでかけた。その面接のときの校長のことばは、ちょっとしたカルチャーショックだったから今も忘れない。
──生徒を殴りきるか? 殴りきらんモンはこの学校じゃつとまらんぞ。
 たぶん、「必要ならそうします」てな優等生の答えをしたに違いない。
──お前がいままでどんなことをしてきたかは、いっさい聞かん。そのかわりこの学校でいらんことをしてみろ、ただじゃおかんぞ。
 飯塚ンモンの「ただじゃおかん」は、言葉だけのことではないのを知っているから、別に何もする気はなかったが、「やるな」てな感じだった。
 それから7年半後、消耗しきって退職したが、その間は、高校時代、大学時代につづく第3の青春時代だったという話はしつこいくらいにした。面接の次の日から、高1・2・3年の現代文と古文をすべて教えることになった。職員室で予習をしていると、「勉強しているところを見せたら、この学校を辞めるつもりだと睨まれるぞ」と先輩から言われた。1年目はともかく、クラブ顧問や組担任をしはじめてからは、殴る以外に方法が見つからないことだらけになった。挙げ句の果ては
──いまから30分間説教を喰らうがいいか? 一発殴られるほうがいいか? 
──・・・殴ってください。
──ようし。
 なんとも未熟な教員だったが、生徒も親も「センセイ」として扱ってくれた。そのたくさんの子どもたちや親たちから様々のことを教わった。そこで、いっしょに遊びまくったM坊やゴンちゃんやH君、絶滅危惧種に引き合わせてくれたNさんや、Gと出会った。
 教育者というよりは、事業家のイメージが強い人だったが、自分にとっては大恩人だ。最初は62歳までつづけることになるとか1%も予想していなかった教員への道を開いてくれた。その理由はただ「後輩」だったから。
 たしか、舛さんと同級だと聞いたことがある。もちろんお互いに無視し合っていたけれど。旧制中学の最後の入学生にあたる。
 通夜の席で、その娘さんを見かけた。当時の在校生で、封鎖になっていた(扉に角材がハスにぶちこんであった)図書室を再開しようと在庫整理をしていたとき、親に隠れてこっそりと、しんどい仕事を手伝ってくれていた。
──本を借りていっていいですか?
──?、、、校長には内緒ぞ。
 やせっぽちの女の子だったが、もうそのころの彼女と同年齢の娘さんが横にいた。そうだ、もうあれから30年くらいたったのだ。
 
別件
 今日の葬儀には行かない。老人ホームで、年に2回の家族会がある。
 なんだか、そこで他の家族とお喋りするのが好きなのです。あそこを作ってくれた第一世代が引退するときは、亡くなった方の家族もふくめて同窓会をやりたいと考えている。
──入居者や介護士のかたの住所録は整備しといてくださいね。
 ひょっとしたら今年は、「もういいでしょう」と代表者の順番が回ってくるかもしれない。