美しい人にまた会えた

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 震災後あまり日がたたないとき、新聞で、がれきのなかで毛布にくるまってたたずむ女性の写真を見て、ただ「うつくしい」と思った。その写真がまた数日まえに載っている。幼稚園に通う子どもと会えなくなっていたけど、また再会できたという記事だった。
 絶滅危惧種に見せると、「その写真は世界中に配信されとるよ」。
 そうだったのか。
 こどもといっしょに写っているほうの写真は、おかあさんというよりは、まだネエチャンと呼びたくなるくらいに顔がふやけている。ふやけているくらいでちょうどいい。
 アフガニスタンで爆撃がはじまったときの、まだ10代のお母さんの写真をファイルしているが、(あんまりきれいだったから)あんな緊張した表情にはもう現実では会いたくない。
 新聞記事によると、再会できた男の子はもうお母さんから離れられずにいるという。よかよか、心配せんだちゃよか。だいじょうぶ。そのうちりっぱな男になれるから。
 人間と犬とを混同するな、と言われそうだが、まだ子どものとき、ピッピを危機一髪で助けたことがあるが、そのあとピッピはお父さんの胸にびたっとくっついて動こうとしなかった。が、一人前になって、いまや義理の息子に気を配るりっぱなおかあさんだ。
 室蘭のケーちゃんも、最初はばあちゃんにくっついていないと安心できなかった。ばあちゃんの姿がちょっとでも見えなくなるとビービー泣き出す。「今日一日だけ面倒見てくれない? アタシ、トイレにも行けん」
 「これがバアちゃんだよ」とひもを持たせてトイレにはいっているという話だった。その日、ケーちゃんにつき合った一日のことは永久に忘れない。ましてや、子ども抜きの人生になったということは、孫抜きの人生になったということで、忘れてなるものか。
 そのケーちゃんも立派なお母さんになったみたいだし、そろそろおばあちゃんになるんじゃなかろうか。ということはショウコさんはひいおばあちゃんになるのか!
 よかよか。だいじょうぶ。
 読売新聞のコラムによると、家族をうしなった高校生が避難所で、他の被災者の世話を笑顔でつづけているという。その高校生が夜ひとりになると突然泣き出したりする。
 心のケアが必要だ、と結ばれている。そのことに直接反論したいわけではないけれど、なにか不自然な結ばれ方に感じた。
 「昼間笑顔で他人の世話をし、夜ひとりで泣く」こと自体は生活者としてフツウのことだ。だから、被災者の生徒が「昼間笑顔で他人の世話をし」ているのを見ては心配し、「夜ひとりで泣く」のを見たら安心する、のが常識ではなかろうか。少なくともわれわれは、そうやって生きてきた。「中夜兀然坐 無言空涕泣」はだれにでも起こることなのだ。  
 
別件
 今朝の散歩は、ピッピが「まだ遠くまで行く」と言い張って約2時間。もう遠足だった。途中で出会った杖をついたおじいちゃんは、「可愛かですなあ。兄弟ですか? 家の中で飼うとるとですな? うるさかでっしょ?」チビたちのお陰でまた話し相手がひとりふえた。
 野は花盛り。
 あざみ(もう終わりがけ)、すみれ、たんぽぽ、ひなげし──と、かってに思っている草花──その他、名前が出てこないもの。
 今津湾では鷺のすがたが目につくようになった。カモもいるが、いつのまにか種類が代わっている。その家族(?)にも子どもが生まれていて、おもちゃみたいなのがかたまって器用にすいすい遊弋している。種類の名前が分からないから、こんど「水辺の鳥」という本も買おう。