堀田善衞『めぐりあいし人びと』

GFsへ 2011/04/19

 堀田善衞『めぐりあいし人びと』(1991〜1992 お茶の水 山の上ホテルでの座談─集英社文庫─)のなかで、印象に残った部分をコピーします。
 「私は、1947年の1月に帰国するわけですが、帰国直前の宣伝部内は、部内(蒋介石側)での利権争奪をめぐる争いが激化し、部内の全員がピストルを所持するという、きわめて危険な状態になっていた。このままここに留まっていては、いつ自分もその闘争の巻き添えを食うかわからない。そう思って、急遽帰国手続きをして日本に帰ることにしたわけです。
 ちょうど47年の1月末に、最後の引き揚げ船が来るという情報を得て、あわててそれに飛び乗り、逃げるようにして上海をあとにしました。そのとき、中国人のなかでも、日本で育ったりしたために、中国の生活に馴染めないような人が何人かいて、その人たちを日本人に仕立ててその引き揚げ船にいっしょに乗せてあげたりもしました。
 佐世保に近づくにつれて、五島列島や九州が見えてきて、みんな甲板に上がってその山々を見ていると、一人の日本人の子どもがやってきて、「なんだ、山ばっかりだな。いったいどこに住むんだろう」と訊く。私は、「山と山の間に住むんだ」と返事しましたが、その子は無錫あたりの大平原のまっ只中に暮らしていましたから、山がちの日本の風景を見て、ずいぶんと戸惑ったんだろうと思います。それがその子にとっての日本認識の始まりだったのでしょう。
 そうして、ようやく佐世保に着いたのですが、船内で伝染病が発生したというので、一週間ほど沖で足止めとなってしまいました。あまり退屈なものだから、船底に引き揚げ者たちを全員集め、その中央にミカン箱を一つ置いて、日に一度は船に様子を見に来ていた警官を呼んできて、「日本で今いちばん流行っている歌をうたえ」といったんです。するとその警官は、ミカン箱の上に乗って、「赤いリンゴに・・・」とうたいだした。それを聞いて、私は心底ショックを受けました。
 私は、まがりなりにも中国での内戦をくぐってきて、祖国を回復するためには革命──革命といっても、共産党による政治革命ではなく、しいていえば文化革命的なものを構想していたんですが──を起こさなくてはいけない、そんな気持ちでいたものですから、あの敗戦ショックの只中で、ろくに食べるものもないのに、こんなに優しくて叙情的な歌が流行っているというのは、なんたる国民なのかと、呆れてしまったんです。しかも、そのときは2,1ゼネストが決行されるかどうかという時期ですから。もう革命運動などはだめだ。この国の優しさに寄り添って、流れて流れてどこまでも行ってやる、そんな虚無的な気持ちになってしまいました。」
 当時の堀田善衞はたしか28歳。現在62歳の読者は、その優しさにかすかな希望をもっている。ただし、そのかすかな希望はリーダー不在と並立しているのだけれど。
 おなじ話のなかに、あとひとつ面白いことが付け加わっている。
 「田舎では、・・・ぶらぶらしていた。そんなときに、ちょうど天皇が全国を巡幸する途中で、うちの近くへも来ていた。そこで私が、祖母に行かないのかたずねますと、「戦に負けるような天皇なんか、だれが見に行くものか」と、怒鳴りつけられてしまった。・・・「私らの天皇は、戦に負けたことなんか一度もない」。
 あと一カ所。最初のイラク戦争(父親の戦争)についてヴァチカン放送は、「意思疎通のできないもの同士が武器をとってはいけない」という見解だったという。なるほど、日本は中国と戦争すべきではなかった。いくら強引に引きずり込まれようとしても、袖を引きちぎってでも「脱中」すべきだった。たぶん、倭族と漢族とでは根本の世界観が違っているのだ。
 もう一カ所。現役の国語教員用に
鴨長明は指図、家の設計がたいへん好きだったらしい。自分で設計図を書いては家をつくっていくのですが、おもしろいことに、つくるたびにどんどん家が小さくなっていく。両親といっしょに住んでいたころと比べると何でも10分の1ほどになったといっています。
 有名な『方丈記』にしても、その名前が示しているように、あれは一種の住居論なのです。例の、「ゆく河の流れは絶えずして──」というイントロダクションにしても、あの枕は無常にかかるのではなく、実は、住む家にかかっている。そのあたりのニュアンスが、古典の教科書などでは見落とされています。」

 ほかにも印象的なところが数カ所あるが、長くなるから、あとはコピーを送ります。

別件
千葉の銚子で白魚漁をしていた山口さんご夫妻が津波で船を喪って途方にくれていらっしゃる、ということは前にも報告した。(新しく船をつくるとなると、家一軒分くらいかかるという)我が家の主婦は「まだ冷凍しとうとがあるけど、あとはどうなるとやろか」と自分の心配をしている。その続報。
 銚子港は内陸よりで被害は最小限ですんだらしいが、当日、漁に出ていて船が転覆し海に投げ出された山口さんは、そばのテトラポットによじ登り難をのがれた。そのままテトラポットのてっぺんで救助を待ち、ヘリコプターに助けられたのだそうだ。たぶん70すぎ。山口さんのような方が、山形の山村の夫婦同様、われわれ軟弱な団塊の世代の精神的ご先祖さまのように思える。