筍とアサリ貝をもらった

GFsへ 2011/04/23

 今週は、二日にわけてまる一日寝ていた。Fの奴め、「60すぎの知恵熱」だと言いやがる。でも、そうかもね。なんだか思春期の続きが始まったような感じなんだけど、何せ体のほうは容赦してくれない。きつい時は布団のなかで、「もう2・3ヶ月くらい沈黙しよう」なんて考えていたのに、また何やら書き始めている。こういうものにはまっている人の症状というのが少し分かり始めた。学術的な説明はsにまかせます。
 数日前、絶滅危惧種が野菜の行商にきている方から筍を「もらった」。その日の夕刻、さんぽ帰りに教え子のおじいちゃんから「先生、あさりはお好きですな?」。アサリ貝を「もらった」。夕食は山の幸と海の幸。なんだか変な感じだったが、これ以上の贅沢な食事は思いつかない。
 田中好子さんの訃報を見て、「あの田中好子か?」と記事をみたら、やっぱりそうだった。とくに思い入れのある人ではないが、やはり若すぎると思う。テレビの○○番組に繰り返し出てくる彼女の表情は、日本人、を感じさせる。貴重な女優さんだったんだな。いまどきの女優さん(とも呼びたくない人たち)には、もはや国籍がない。これからはもっと、世界中がそうなって行くんだろう。
 東京の年下の友人からハガキがとどいた。一応日常生活はもどってきたけど先が見えない感覚は当分つづくだろう、とある。そのとおりだろうけど、母親たちは前半生でその「先が見えない生活」を強いられていた。たぶん祖母も、曾祖母も。
 日本に限ったことではないのかもしれないけれど、近代というやつは、人びとの神経をちょっと傷つけすぎた。そのせいかどうか、テレビに顔を出している人たちをみていると、変にニヒリスティックな印象がある。書呆子のいうとおり、独断と偏見なのかな。
 そう、前にも言ったけど、「明日も、明後日も、今日と同じようにつづいたらいいな」という感覚を幸福というんですよ。オレはひねこびた若者だったから、「いつか、十年一日のごとき毎日をはじめての日のように生活したい」と願っていた。もういまさら、そんなイキイキとした生活はできないが、十年一日のごとき毎日、は手に入りかけている。そのことにはゾクゾクするほどの淫靡な喜びがある。なんで淫靡なのかはまた布団から出られない日にでも考えることにする。
 これも新聞記事によると、フランスだかどっかで、ブルカ着用の是非でまだもめているらしい。郷にいれば郷にしたがえ。フランスで暮らすのなら、顔を見せるのが公共の礼儀だ。もし、そんなものを被っていいのならオレも被りたい。てめぇの顔をさらしてソウツク(歩く)なぞ、本音でははずかしい。が、今の社会は、みながその恥ずかしさに耐えることで、一定の安全を手に入れているんだ。
 
別件
 市民図書館へのお詫び
 インターネットで、貸し出しの欄が×になっているのを、貸し出し禁止のことだと思っておりましたが、「ただいま貸し出し中」の意味でした。ここに、心よりお詫びして、訂正いたします。