盤珪禅師の不生禅

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 玄侑宗久のことを書いているうちに、「不生禅」を思い出した。学生時代に読んだ岩波文庫なんだが、いまも本屋に置いてあるのかな?  たしか当時いりびたっていた神田神保町の喫茶店ラドリオの前の古本屋に、5冊100円で山積みされていたように記憶している。江戸時代の禅僧の話を残してあるのだが、その話というのが、「われわれはまだ生まれていない。だからわれわれは死なない」ということばかりが繰り返し語られているように感じた。
 横浜に行ったときにその本の話をしたら、内容にはいっさい触れず、「ちゃんと書き残した者たちがえらい」という意味のことをぼろっと言った。
 その本の題名も忘れていたからインターネットで調べてみると、「盤珪禅師語録」とあった。・・・臨済宗妙心寺派・・・いくらなんでもアングリマングリが合いすぎでしょう?
 「不生禅」とタイプしたら出てきた龍門寺(揖保川ぞいの網干)のHPを覗くと、盤珪禅師のつぎのような言葉が最初に掲げられていた。
「親が生みつけてくれたは、仏心ひとつでござる。その仏心は、まこと不生にして、霊明なるもので、これのみにして、人間いっさいが調いまする」
 そんなことばが出ていたかな? 40数年後に覚えていたのは、最初に引用したことと、あとはその口調だけだったんだが、「われわれはまだ生まれていない」ことの意味はずっと気になっていて、おおまか次のように解釈していた。
 われわれはまだ生まれていない。なぜならわれわれはまだ仏に会ったことがないからだ。仏にあったときにはじめてわれわれは本当に生まれる。だから、生まれる前に死について考えるなぞちゃんちゃらおかしいぞなもし。
 だが、これは理屈だ。理屈に生命感はない。だから禅師はただ「不生」だけを繰り返し語った。「よけいなことを考える暇があったら、まず生活をしようよ」・・・それも理屈か。
 要するに盤珪さんは、「空」という一般人にはイメージのわきようがないことを、「不生」と言い直したんだと思う。だったら「不生」じゃなくて「未生」だろうというのは屁理屈で、「生まれることを期待する」のも生活するうえでは邪魔なこと、なんじゃないかな。それでも何か屁理屈っぽいものが残る。それを捨て去るには、むしろ世間語のほうが適当だったんじゃなかろうか。世間語には論理を超えた何かがある。
 『冬のかたみに』を読んで、臨済宗には生活感があると感じた。玄侑宗久のことばには実質があるとも感じた。盤珪禅師の場合は・・・。たぶん、ことばよりも人間性によったと思われる。
 そういえば、仙突さんも臨済宗。Gの尺八のお師匠さんも臨済宗のはずだった。
 もうそろそろ、本棚のどこかに隠れている『臨済録』を見つけ出す時機を得たような気がしはじめている。
 
別件
 窓の前のハナモモはいよいよ葉が繁ってきた。そうするとその横のモッコウバラがたぶん明日には満開になりそう。これは一斉に咲いて、あっという間に一斉に散る。いよいよ初夏です。
 今日は傘をもって弟の墓参りに出かける。ただ行くだけ。掃除をする意思もない。その出かけていく過程がなんともいいのです。