ほどよい狭さと低さ

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 名前を思い出せないが、惚れ込んでいる建築家がいる。名古屋芸大などを設計した人だ。奈良の博物館もかれの設計ではなかったろうか。最初はその人の軽井沢にある別荘が気に入って写真集まで手に入れた。なんとも居心地の良さそうな建物だった。・・・たぶん写真をみたら、「ああ、知っている」と思い出すと思う。小さいことと開放的であること、内部のどの位置からでも全体が目に入ることと視線の方向が四方以上にあることが兼ね備わっている。
 名古屋芸大にはいつか行ってみたいと思う。なぜかというと、「建物はもちろんだが、そのキャンパスを居心地のいいものにするためにもっとも苦心した」と語っている。気に入ったキーワードがその「居心地の良さ」なのだ。かれが苦心したその「居心地のいいキャンパス」を歩いてみたい。
 フランスのなんとかいった人の住居もまた実に住み心地がよさそうだった。あの人が自分のために設計した終の棲家は「暮らしてみたい家」のトップだ。コルビージェ(?)と日本のその建築家のコンセプトには共通点が多い。・・・いづれ「自分ひとりのための小屋」を作ることは我が野心のひとつである。机についたままで何にでも手が届く広さ。寝転がったままでも好きなものを見たり聞いたりできる棚や天井の高さ。
 日本の建築家は、住居に関しては、「居心地のよさには、一定のせまさと天井の低さが必要だ」と言う。以後ぞっこんである。「だからといって、住まいを個人個人の空間に区切ってしまったのでは家族として居心地のよさは生まれてこない。そうではなくて、みなが自然に集まってくる場所と、ひとりひとりが家族に背をむけていられる、小さな陰になるそれぞれの空間(つまり、「隅」)が家には必要なのだ」とつづく。たとえば台所は主婦が家族から隠れられる小さな空間、我が城、庭に面したある場所は男主人が家族を無視して(あるいは背中で意識しながら)タバコをふかしていられる我が砦なわけだ。対面キッチンなぞ愚の骨頂ということになる。(山小屋はじつは対面キッチンになっている。ただし、「ここ使いやすい」と言う。種明かしをすると居間より一段低く作られている。だから、絶滅危惧種はそこで「ひとり」の気分を味わっている。)
 そのあとには、「丹下健三くんは、自分の家を建てるときに総畳敷きの家にした。そんな家に奥さんを住まわせようとしたから離婚することになったんじゃないかな。」てなエゲツナイ話にまで発展する。が、たしかにその丹下健三邸には住んでみたくない。
 が、これは家屋に限った話ではなさそうに思う。
 ほどよい狭さと低さ。民主主義がなりたつのはそういう社会ではないか。しあわせ、という概念が呼吸できるのもやはりそういう空間のように思うのだが如何? もちろん、ふしあわせ、という概念もまた
同じ空間にとぐろをまくのではあるが。

別件
 玄侑宗久『中陰の花』(新潮文庫)を読んだ。読みはじめてすぐ、肩胛骨の下のしこりがほぐれていくのが分かった。
 読んでいくうちに心が震えだしたのは、8年ほど前の『リトル・トリー』と、昨年の『蕨野行』以来だったかもしれない。読んでよかった。
 ただし、この人の小説はこれひとつにしておく。あるいは今後も秀作を書くかもしれないが、すでに最良のものを読んだのに、わざわざそれ以外のものに触ろうとは思わない。