『リトル・トリー』

GFsへ 2011/05/05

 今日は、『中陰の花』を読んでいるときに思い出した、『リトル・トリー』の話をします。作者名は覚えていない。アメリカではロングセラーになっていると教えてくれたのは宮内勝典『青春読書案内』
 我が家にリーが来たときとイメージが重なっているから、10年以上前になるのか。父親がとつぜん認知症を発症して飯塚通いが忙しくなったあと、急に下血して入院し、仕事を終えてバスに飛び乗り、電車を乗り継いで飯塚に帰り、夜中に自宅に戻る、ということを繰り返していた。
 その入院の時に覚えていることばが二つある。・・・ひとつは、病院で働いている中年の女性から言われた次のようなことば。
──ぼけたときに、その人の本性が現れるそうです。あなたのお父さんはいい性格をなさっていますよ。
 素直にお礼を言った。のちに、いよいよもう最後の入院になるだろうと決めたところの看護婦さんと話していると、「あなたのお父さんは我慢づよいですよ」と言われた。息子もそうでありたいと思う。
 あとひとつは若い医者の診断。
──胃と大腸にはなにもありませんでした。あるいは小腸になにかできているのかもしれません。しかし、そこまで検査しようとするとお父さんは苦しいです。しかも、もしそこに腫瘍が見つかったとしても、もうお年だし、手術したほうが寿命がのびるのかどうか、私には判断がつきかねます。あとはご家族で決めていただけませんか? 
 お礼を言って、そのまま退院することにした。
 そんな日々、列車のなかで、ルビ訳『リトル・トリー』を読みはじめた。ルビ訳シリーズは、オレのような半端者にはピッタリの本だったのだが、いまはもう見かけない。
 両親を失った先住民の男の子が、祖父母のところに身を寄せる。インディアンとしての誇りをたもつために社会から孤立して生きてきた祖父母は孫を真性の○○族として育てる。原題はたしか『リトル・トリーの教育』だった。そして、おしゃれだった祖母が亡くなり、厳格だった祖父が亡くなったあと、リトル・トリーがひとりで旅立つところで終わっている。その旅立つ前、孫がひとりで祖父を埋葬する場面を入試問題にできたときは、仕事をひとつ果たした気がした。
 父親を見舞う列車の中で30〜40分ずつ読み継いで行ったのだが、その度にまるで、かな文字を覚えたてのこどものように心がふるえた。
 その中で、リトル・トリーが犬たちと協力して白人の悪漢たちを煙に巻いて追い払うところがある。悪漢たちがあきらめて帰ったあと、一匹の犬がもどってこないので探しにいき、腹を割かれて倒れているのを見つける。その犬を抱きかかえて泣きながら帰るとちゅうで祖父が言う。
──泣くな。リトル・トリー。○○はいま幸福さでいっぱいなんだ。
第一に○○は、自分が命をかけてお前を守り抜いたことに満足している。第二に、いま大好きなお前に抱いてもらえて嬉しくてしかたがない。第三に、○○には自分が家に帰りかけていることが分かっている。お前が確実に家に連れて行ってくれると信じている。だから、リトル・トリー、泣くな。○○はいま幸福さでいっぱいなんだ。
 いけません。また涙がにじんできた。タッチンのことを笑えない。
 教員生活最後の頃、心のなかでこっそりと「美少女」と呼んでいた新任教師が入ってきた。たしか2年ほどで公立中学に移ったが、その間、自分なりに彼女を「守った」つもりだ。彼女は、生徒用の新任自己紹介のなかで「心にのこった本──リトル・トリー」と書いていた特別の存在だった。(実際にはそんな話をするどころか、彼女から嫌がられないように離れているので精いっぱいだったんだが)彼女が学校をでていくとき、机の上に「ぎこばた」を置いておいた。読んだかどいうかは知らない。広報担当からの報告では、中学では毎週学級新聞を発行しているという。

別件
 「歌謡曲がなくなった」理由がなんとなく想像ついた。歌謡曲はたぶんケータイ小説に姿を変えたのだ。(読んだことはないけど)。電子書籍がさらに普及するにつれて、この傾向はもっと強くなっていく。恐竜が鳥に姿を変えて生き延びたように、歌謡曲的世界もしぶとく生き残る。