公開された交渉事って八百長のことでしょう?

2011/05/12
 大相撲が再開された。が、ただはいかん。五百円でいいからちゃんとお金をとるべきだ。でないと、大相撲というものがいよいよ勘違いされる。大相撲と学生相撲は根本的に違う。大相撲は基本的には奉納相撲の延長であるべきだと思う。奉納相撲とは祝福にたいする人間からの儀礼なのだと感じる。旅役者の公演にも似た要素がある。
 そのことについては、文化人類学者の今福龍太が上手に説明しているから、下にコピーをのせる。
 ただ、ひとこと付け加えるなら、相撲のいちばんの魅力は立ち合いにある。だから、ただドシンとぶつかる岩木山が好きだった。「呼吸を合わせろ」と親方たちは言う。だが、もし、プロ野球で「ピッチャーとバッターは呼吸を合わせろ」と言ったら、馬鹿にされるだろう。それは練習であって真剣勝負ではない。もちろん、まったく呼吸が合わなかったら、どちらかが嫌ってプレーを中断する。その微妙なタイミングの合わせ方が見ていておもしろい。
(もともと、八百長を忌み嫌ったのは、それが賭け事の対象だったからなのを今の人は忘れている。忘れているから、テレビカメラの前で交渉したり議論したりという、不毛な猿芝居を演じなければならなくなった。現に、原発のことにせよ、いつ誰が決めたのかさっぱりわからない。猿芝居か密室かのふたつしかない政治はそれじたいがもう政治ではない)
 しかし、大相撲はびしっと呼吸を合わせてほしい。そうしないと相撲にならない。立ち合いで自分だけが有利になろうとする相撲は、すくなくとも奉納する値打ちがない。だいいち見ていて面白くない。
 いままで見た範囲で立ち合いがいちばんきたなかったのは輪島、二番目が千代の富士朝青龍は早すぎて、きれいなのかきたないのかも分からなかったが、面白くない点では三人ともいっしょだった。

以下、今福龍太の文章。

 「競技」の原理に対抗して「演技」の豊かな消息がある。前者が近代スポーツ特有の公正な勝敗決着を目指す原理だとすれば、後者は象徴的・儀礼的目的の成就を優先する原理である。
 競技が個の肉体の可能性を追求するとすれば、演技は伝承されてきた集団的な身体性の瞬間的発露を愛でる。相撲は、真の意味で「演技」的な儀礼文化によって支えられてきた。その意味で今の大相撲の窮地は、私たちが社会の深い「演技」的領域を失いつつあることの証である。
 民俗行事として行われていた年占(としうら)の儀礼は相撲の形態をとることも多かった。1年の吉兆、農作物の豊凶を占うための相撲は、かならず凶作をもたらす悪霊の側が負けるように仕組まれていた。けれど悪霊側も「流れて少しはふんば」(春日錦のメール)った。見世物として「うそ」にならないための演技的な智慧である。いまでも、勝敗が番付や給金に反映されない花相撲の粋な「なれあい」の空気がそうした儀礼文化を大相撲のなかにとどめている。─中略─儀礼の宇宙とは真剣ななれあいの産物だった。
 「八百長はあったんですか?」という身も蓋もない詰問にたいし、苦渋をこめて「『ない』としか言えないじゃないですか」と応えた白鵬の、相撲という宇宙の消息にたいする繊細な配慮を誰も理解しなかった。協会はこれを何と「外国人の言葉のハンデ」による失言としてもみ消そうとさえした。大相撲を支えてきた包容力ある儀礼性へのもっともデリケートで配慮ある言葉づかいが、いまやモンゴル人横綱の口からしか語られないという現実を直視すべきである。


別件

 大学の後輩である武田(中日→ホークス→?)は、レッドソックスの本拠地がいちばん好きだという。「子どものころ遊んでいた空き地を思い出すんです」