爾祇有一箇父母

GFsへ 2011/05/15
 『臨済録』を一応、最初から最後までページをめくった。めくりはじめると、所々に傍線がひかれている。「開いてみもせずに古本屋で買ったんだな」と思いつつ更にめくっているうちに書き込みが出てきた。自分の字だった。昭和50年刊行となっているから、教員になりたてのころにでも一度よんでいたのだ。100%忘れていた。

 『臨済録』のなかでは、仏はもはや実在ではなく、概念になっている。その仏のかわりに、われわれには人がいる。・・・そういうことなのかなと感じた。
 あとひとつ気づいたことがある。
 われわれの場合は、出家をしたらそれで望みは達成されている。だからもうその先はない。が、『臨済録』人たちの場合はどうもちがう。なにかを捨てるために出家をするのではなく、何かをほしがって出家している。それは何なのだろう。若いころ、「現代では、出家するということは、けっきょく別の社会に入り直すことにしかならないのではないか」と考えたことがあるが、「現代では」は余分だったのかもしれない。
 なお、『冬のかたみに』は、『臨済録』のなかの『行録』の部分のイメージが強い。

 めくっているうちに「万法無生 本来無事」「一念不生、便是上菩提樹・・・身光自照」「仏本不生」ということばがでてきた。盤珪禅師はそれを「われわれは生まれていない」と意識的に勘違いしたのではなかったか。不生禅は屁理屈というよりは、積極的な勘違いなのだ。

 その他、今回傍線を引きたくなったところは以下のとおり。

・你ただ一箇の父母あり。更に何物をか求めん。
※「父母」(たぶん、ブモ)は「肉体」と訳されていた。
・直にこれ現今、更に時節無し
・心随万境転 転処実能幽
・仏常在世間 而 不染世間法
・無明是父 貪愛是母
・爾但自家看 更有什麼

 今回とても好きになったところがあるので、全文を引きます。

『勘辨』十九
 定上座というもの有り。到り参じて問う、「如何なるか是れ仏法の大意。」師、縄床を下り、擒住して一掌を与えて、便ち托開す。定、佇立す。傍僧云く、「定上座、何ぞ礼拝せざる。」定、礼拝するに方って忽然として大悟す。

 口語訳(朝比奈宗源)
 定上座が参禅して問うた。「仏法のぎりぎり肝要のところを伺いたい。」師は座禅の椅子から下り、胸ぐらをつかまえ、平手打ちをくわせて突き放した。定上座が茫然と立っていると、そばの僧が言った。「定上座、なぜ礼拝しないのか。」そう言われて定上座は礼拝しようとした途端、忽然として大悟した。

別件
 散歩のかえり、ムサシのお母さんに会った。「2匹とも何も苦しまず、連れそうように死にました。」そばでころっと横になっていると思っていたらもう呼吸をしていなかったそうだ。人間で言うなら百才の大往生だった。
 最初の犬が死んだあと、ひょいと気がつくと3匹を散歩させていた。ムサシは自分がもらってきた子犬。あとの2匹は「寂しくなったろうから」と養女になった犬。養女はどちらも年配だった。体よく押しつけられたのだと思う。「どちらももうウチの家族でした。大変でしたけど最期まで面倒みれたので悔いはありません。」一匹は白内障でもう目が見えなくなっていた。だから、毎日、年寄り組とムサシと別々に散歩をさせていた。「あんたたち長生きしなさいね。」