玉三郎の『牡丹燈籠』

GFsへ       2011/05/24

 先週から、腰痛その他で机につく機会なし。やっとどうにか短時間なら椅子に座れるようになった。
 今日はそうなる前に見た、シネマ歌舞伎『牡丹燈籠』のことです。
 ノブタンに勧められて、久しぶりに映画館に行った。たぶん、『クロッシング』以来だと思う。
 早朝一回だけの上映。料金は2,000円。シルバー割引なし。観客は一ケタ。なんとも贅沢な歌舞伎見物だった。しかも、とびっきり面白かった。ぶっとんだ言い方をするなら、ゲオルク・ビューヒナー原作、アルバン・ベルク作曲、歌劇『ヴォツェック』に匹敵する。余計な説明はいっさいなし。「なんで?」などと訊いても、「知ったことか」。
 これは、是非見に行くことを勧める。見たら、玉三郎のイメージがまったく変わる。あの人はとんでもない役者であり、たぶん頭抜けた演出家でもあるのだと思う。
 その映画をみて考えたことがある。
 歌舞伎に代表されるいわゆる旧劇と、新劇はまったく違う演劇だ。
 旧劇は、筋書きが全部わかっていてもまた見たくなる。たとえば、今度、歌舞伎座のサヨナラ公演、片岡仁左衛門の『女殺油地獄』が上映されると知って、ぜひ見に行こうと思っている。作品はすでに博多座で見た。板東三津五郎の息子たちが演じたのだが、実に面白かった。同じ芝居を片岡仁左衛門がどう演じるのか興味津々。興味は筋書きではなく芸なのです。演出なのです。しかし、新劇にはそんな期待の仕方はしない。小説と同じで、一度読んだらもうそれでいい。感動したものほど、も一度見ようとは思わない。あとは、自分のなかでそのお芝居が勝手に成長したり老いていったりする。
 これは、古典と新作の関係とも一致する。
 われわれには、その両方が必要なのだ。両方が必要なのだが、いまはむしろ、新劇・新作のほうが危機的なんじゃないかななぁ。
 
別件
 大相撲がおわった。もちろん一回も見られなかった。NHKが「契約にないから」と放送しないのなら、どうして民放なりスカパー!が「じゃ、ウチが」とやらないのだろう。右へならえの代表が日本のマスコミだな。なんの独立心もポリシーもない。
 NHKにしろ、「契約にない」なら、「今回は放送料は払わないがそれでいいか?」と大見得きってから放送すればいい。それでも気が引けるなら、アナウンサーも解説なし。野球やサッカーの裏放送のように場内の音のみにすればいい。あるいは、ラジオだけにするという方法もある。
 なんでも一律。右にならえ。あれかこれかの二者択一しかないのでは発展性がまったくない。
 それにしても、今場所は面白かったろうな。
 何度も繰り返すが、大相撲は勝負を見せるためのものではない。芸を見せるものなのです。芸を見せようとしない相撲取りは即刻クビでいいんです。ただ、「土俵際」がどうのこうのとしたり顔でいう連中はクソだ。プロはできるだけ怪我を避けなければいけない。力をぬくところは呼吸を合わせて互いにさっさと力を抜くべし。その要領は稽古場や巡業でつかんでいるはずなのだから。