白川学への招待

読書通信

 白川静『中国の古代文学』(中公文庫)が届いた。
 インターネットで注文するのだから、当たり外れは大きい。たとえば、森三樹三郎の『荘子』は開いたとたんに「しまった。」肝心の原文が載っていない。書き下し文だけでは本人の頭の動きみたいなものは感じ取れない。三〇年以上の教員生活のお陰で、その程度には漢文力がついた。仕方がないからあらためて岩波文庫を注文した。へんな色気を出さなきゃよかった。
 が、今回は開いたとたんにぎょっとなった。
 カバー裏の端っこにこうある。
「この巻(1,神話から楚辞へ)でとり扱った時期は、古代中国人が神を発見し、また失う過程を示すものである。」
「古代共同体的な生活が破壊され、封建制が根付いたとき、人びとはそれぞれの運命におそれを抱き、そこに古代歌謡が生まれた。」
 という視点で考察したものだという。
 その発想は先住民の息子がながらく孤独に(とあえて言っておく)追いかけてきたこととほとんど一緒ではないか。ただ、その追求のしかたが空想的か実証的かというちがいがあるにすぎない。しかし、実はどちらも、もともと本能的な発想なのだ。本能的、だけではわかりにくいなら、種保存の本能、とか、生命維持の本能とか付け加える。その本能的な発想を実証的に説明しようとしたのが白川静。空想に賭けたのが先住民の息子。・・・そういうことなんじゃないかな。
 以下、その序文のほんの一部を書き写す。
 「わたしは中国の古代には十分な意味での英雄時代というべきものはなく、また英雄叙事詩というべきものもなかったと考える。・・・中国の詩編の時代・・・にあらわれたものは英雄の伝承ではなく、貴族化された族長とそれに隷属する民衆の姿であった。東アジアにおける古代歌謡の時代は、古代的氏族制の中核をなすものが外圧によって破壊され、新しい階級的社会関係に入るときに生まれた。『詩経』や『万葉集』は、そのような意味をもつものとして、その比較的な分析の対象とすべきものであろう。しかしそのような研究は、いまもなおほとんど進展をみせていないのである。」
 まだ若い学徒の才能を見いだして博士論文を提出するよう奨めた貝塚××や吉川幸次郎はその後、白川静の仕事について言及することがなかったという。かれの仕事はあまりにも根源的で、貝塚や吉川の携わる「文化」とは異質すぎたのだ。ひとつ間違えば白川の学問は、文化という高級なものと土俗とをない交ぜにしてしまう。しかし、白川はそうはしなかった。そうはぜずに、ましてや新興宗教的にもならずに、あくまでも初期の人間の蠢く思考を再現しようとした。・・・どうもそういうことらしい。
 もうしばらく、黙々と(と言いつつ言葉が噴出しそうだが)読書をつづけることになりそうです。

別件
 チビたちを狂犬病の予防接種につれていった。弱虫のガロは診察台にのせられているあいだ中、ただひたすらお父さんの目をみつめることに集中していた。