白川学入門

                        2011/06/02
 白川静『中国の古代文学』(中公文庫)をぼちぼち読みはじめている。 とてもじゃないが、ぼちぼちにしか読めない。面白いなどという次元を通り越している。「詩もどき」の最後で大言壮語したけど、あるいは白川学の影響があるのかもしれない。でも、たしか、読みはじめたのは、あれが出てきたあとのはずだな。タイミングがぴったしだったのだろう。
 面白いという次元を超えている、というのは、前回も書いたように文化について考えるには、文明の次元まで遡らないと何も語れない、ということなのだろうと思う。それは、別に高級なことなのではなく、普通のことなのです。それなのに、世の学者たちは、自分たちが高級なことをやっている気分を捨てきれない。土俗的で旧時代的で低級なことは今もわれわれの生活のなかにたくさんしみこんでいる。それを「ないこと」にした次元で、ふだんの生活じたいがまるで祝儀のように執り行われている。なにか、そんな気がする。政治の話だけではなく、われわれの生活そのものがそうなのだし、そうしないともう生活が成り立たなくなっている。
 昨日今日と二日間ほとんど寝て過ごした。またもや知恵熱が出たのかもしれない。なにしろ白川静の文章を読みはじめたら、脳みそだけでは足りなくて、体中でものを考えているような感覚になる。
 そのうつらうつらしている時に映画があっていた。
 ひとつは「勇者たちの戦場」という最近のアメリカ映画。イラクからの帰還兵を題材にしたやつだが、好ましかった。一人は人質事件を起こして警官に射殺される。二人はそれぞれ生活を取り戻す。ひとりはまたイラクにもどることにする。ぼうっと見ていただけだから、題名以外は記憶に残っていない。
 もう一本はスティーブ・マクィーンの「・・・キッド」。若い頃そのエッチさに参っていたアン・マーグレットを久しぶりにみた。恋人役をやっていたのは確か「チュウチュウ」というニックネームだった女優さんではなかったろうか。が、そんなことより、大勝負を前にした主人公が通りかかった店で演奏されていたジャズにぎょっとなった。その音楽は「文化」などという軽いことばで片付けてはいけない、めちゃくちゃに深いものを内蔵している。通りすがりに聞くという設定なので、その曲のさわりだけがあったのだが、いつか全体を聞きたい。誰たちの何という曲なのか? なに、いまやインターネットという強い味方がある。
 貝塚××や吉川幸次郎白川静を避けたのは、自分たちは貴族的なクラシックをやっているつもりなのに、それをジャズにされて、いやジャズ以前の太鼓と踊りにされてしまったからなのかも知れない。しかし、ほんとうの(と言って、別に本当じゃないものがあるわけでもないんだが)クラシックには土俗性が内蔵されている。来週だったか、名前を思い出せない日本人指揮者によるウィーン・フィルマーラーがTBSとNHKで放送されるという。ちょうど尾瀬に行くときなので忘れずに録画予約していくつもり。あの人(佐渡××)には、そんな感性がある。
 あとひとつ、吉川幸次郎たちが白川静を遠ざけた別の理由が見えてきた。白川静の人格のことだ。なぜかというと、白川学を読んでいると、そのイメージが南方熊楠とだぶってくる。二日間も寝込んだのには、そういう事情もある。が、もうしばらく、はまって行くことになりそうだ。
 アッシの場合は大丈夫。どうかあると、すぐ寝込んでしまって解消される。

別件
 毎日仕事にきている職人さんとすこし話した。10代から今の仕事を33年間しているという。
──だからもう、ほかのことは何もできまっせん。
「いい生き方をなさってますね。」心の底からそう思って言った。