お爺ちゃん、さよなら。

GFsへ             2011/06/10

 あんまり楽しい一日だったので報告。

 本日、福岡市国語部会総会。誘いがかかったので、現役のとき同様に、懇親会のみに参加することとする。場所は西新。時刻は夕方5時半から。だったらそれまでは、すぐ近くの総合図書館にいられる。
 白川静が引用している金石文でどうしても解読できないところがある。もう限界までは頑張ったから、あとは先学に頼ってもいい。
 図書館についてみると、午後1時半からアントニオーニ(だったかな?)の映画を上映するとある。「出演××、アリダ・ヴァリ」観るっきゃない。よし、一時までに調べものを終えよう。それから昼飯を食って、あとは映画鑑賞だ。
 意欲的に調べているうちに、たしか「書道体系」のなかに目指す文章が入っているのがわかる。わが福岡市の図書館がすごいのは、その「書道体系」がすぐに見つかることだ。「ゲット!」あとはコピーをとって午前中の仕事は終了。

 飯を食ってミニ・シアターなるところに急いでびっくり。無料だった。
 ぎりぎりに行ったので、すでに暗くなっていて、目を慣らしてから見回すが、座れそうな席がない。けっきょく2時間たちっぱなしで観たが、全然疲れを感じなかった。
 夫が出稼ぎに出ているうちに、別の男との間に娘ができて7年になるアリダ・ヴァリは、(そうか。彼女はデュラス原案『かくも長き不在』の主人公を演じた人です)またもや別の若い男の子どもを妊ったのに気づき、今いっしょに暮らしている男に理由は言わずに別れを告げる。7年間いっしょに暮らした男は放浪の旅にでるが、けっきょく疲れはて娘に会いたくなって恥も外聞も忘れて町にもどる。町では空港建設がはじまり、男の働いていた工場はすでに閉鎖されている。アリダ・ヴァリの家をのぞき見すると、赤ちゃんに夢中になっている女の姿が見える。自分の居場所はすでにどこにもないことを知らされた男は、もとの職場の螺旋階段を上っていく。もとの男がもどってきたことを知ったアリダ・ヴァリは男を追いかける。が男はアリダ・ヴァリの足元に身を投げて死ぬ。
 大体そんなあらすじだった。
 観ていて飽きなかった理由のひとつは、アリダ・ヴァリだけでなく、出演している女優さんが、すべて実に魅力的で、「女」を見ている気になれたこと。35㎜の白黒画面が実に美しかったこと。
 これは、図書館を出て、むかし行きつけだった喫茶店に落ち着いてから思ったことだけど、あの白黒画面はなんともリアルだった。われわれは、カラー時代になって、あのリアルさに出会えなくなってしまった。大体ものごとはそんなふうになっている気がする。
 立ちっぱなしで観ながら、いろんな映画を思い出していた。あとから考えると、ぜんぶ白黒時代の映画だった。
 『道』『禁じられた遊び』『裸の島』(××兼人の以後の映画でほかには語りたいものがないのが不思議)。たぶん、いずれも1950年代のものだ。あの時代がわれわれの原点だった。あとひとつ思い出したのが、大島渚の『鳩を売る少年』。「内容が暗すぎて商業価値がない」と、完成後に配給とりやめになり、お蔵入りした映画だけど、台本を読んでみると好感が持てた。というか、大島渚の映画で好きなのは、その一本だけだ。だが、あの映画の「現実」は、50年代のイタリア映画から学んだもので、日本の現実から学んだものじゃなかったんだな。『鳩を売る少年』で描かれた日本の現実は大島渚が創った現実だった。松竹のお偉方には、そのインチキ臭さが匂ったのだろう。
 そんなことを考えつつ、懇親会へ。
 もろ楽しかった。その楽しさの理由は、参加してメンバーが、「教員になって儲けた」と思い、国語を教えていることによろこびを感じ、自分の仕事のしかたに誇りをもっている者ばかりだからだ。それがない教員とは口をきく気がしない。
 無津呂先生を通じて、修猷館(当時)の男を知った。その男が部会長になったことで、懇親会に顔を出すようになった。そこで筑紫女学院の男を知った。さらにその男とと自分がおなじ女性教師を自分の後継ぎにと期待しつつ、その女性の家庭事情でどちらも願いがかなわなかったことを知った。(同じ女に惚れた男同士は親友になれる)「来週、宮崎に行くので会う約束をしている。先生のお気持ちもしっかり伝えてきます。」
 その男の教え子だといううつくしい女性も参加していた。そのことを言うと、隣の女性が、「友だちの友だちは友だちだ、ですね。」まったくその通り。それが人生最大のよろこびだと思う。
 長くなったから、本日これまで。

別件
 図書館にいくバスのなかで2才だという男の子が前の席に座っていた。「4才だ」「5才だ」と言われても信用するほどに利発だった。正直言うと、「子どものころのオレはこんな感じだったんじゃなかろうか」と思ってしまうほど、生き生きしていた。(田舎のお爺ちゃんから届いた葉書がいま手許に残っている。「ジンギスカン鍋を買ったから、またいつでも遊びに来なさい」と鉛筆で書かれている。きっとお爺ちゃんにジンギスカン鍋の話を夢中でしたのだ。もと福岡の教育界で煙たがられていたという人物に夢中で話をする妹の孫が面白くてしかたなかったのだろうと思う)
 その子が体ごと後ろを振り向いたので、「大人になった君に会ってみたいけど、もう無理やろね」と言うと、「それ何?」
 でも、その子には、オレの言った意味が正確に分かっていたのだ。バスから降りぎわにこっちを向いて、「おじいちゃん、さよなら」とはっきりした声で言った。それは、そばのお母さんが慌てるほど明快なことばだった。