熊楠余聞

GFsへ 2011/06/21

 高山寺住職土宜法龍への書簡集(藤原書店)をめくりおわった勢いで、毛利
清雅柴庵への書簡集をめくった。
 毛利清雅は12才のとき高山寺に入れられ、住職となったのち寺は弟子にまかせて故郷田辺にもどり、「牟禮新報」を興しながくその社主となる一方、政界にのりだし、志をはたそうとつとめたとある。67だったか、出陣する息子を見送りにいく途中で斃れこの世を去った。その名前は大逆事件の調書にも残されているというから、気骨ある人物だったようで、南方熊楠の盟友でもあった。
 その号、柴庵は
ひき寄せて結べば柴の庵にてとくればもとの野原なりけり
  によるという。
 南方熊楠と毛利清雅がおこなったことのひとつが、神社合祀への反対運動だった。なにやら「平成の大合併」を思い出させるが、明治政府はまず地方自治体の合併整備をおこない、それにつづけて神社合併をおこなった。(近代化なんてそんなものだ)なかには、大きな神社を小さな神社に合祀し、「余った」土地と「邪魔になった」神木を売りとばして皆で現金を手に入れた、などという事例もあるという。その金で学校を建てたという例もあるそうだから、一概に否定することもできないのだが。
 毛利への手紙をみていると、南方熊楠は知力のみならず、その感性も巨大なものだったのだと思う。たとえば、『大菩薩峠』の中里介山を、「未熟だ」と批評して次のように書く。
 難船して浜辺に打ち上げられた年増女が、たまたま通りかかった殿様の介抱をうけて蘇生するところがある。殿様が美男だったこともあって蘇生した年増女は「飯炊きでも何でもするから」と恩人の身近で働きたい意思をあらわす。
 そんなことはウソだ、と熊楠は言う。
 蘇生をしたら、それまで意識を失っていた間にこの人はわたしの体をどんなふうにあつかったのだろう、とまず考える。そうしたら、その恩人の目の届かないところに行くたくなるのが女だ、というのだ。
 すげー。こいつはホンモノだ。
 そのホンモノが「孫逸仙という男にあった。あいつは山師だ」とのみ書いていると、やはりそうだったか、と頷いてしまう。
 昭和4年だったか、昭和天皇の熊野行幸の際、熊楠は神島(かしま)というわずか数ヘクタールの小島でご進講をする。天皇はそれ以前から熊楠のことは知っていたという。船頭(漁労組合長)の、舟から下りてきた天皇に熊楠がなんどもぴょこんぴょこんとお辞儀をする。そのたびに天皇もお辞儀をかえすので挨拶がおわらなかったという。まるでチャプリン無声映画のような思い出話が載っていた。
 天皇にとっては楽しい思い出だったのだろう、おりにふれて熊楠のことを語ったそうだ。
 「あいつはふだん素っ裸だと聞いていたから、どんな格好をしてくるのだろうと思っていたのに、普通の格好だった。ただ、クモやトカゲや菌類を進呈してくれたのだが、普通なら桐の箱にはいっているのに、タバコやキャラメルの空き箱に入っていた」
 これには熊楠の娘の思い出話がある。ほんとうは桐箱を用意していたのだそうだ。しかし、それを開けて中を見せる練習を何度やっても不器用な熊楠は失敗する。それで諦めてふだん利用している紙箱にしたのだという。
 そのご進講以前、熊楠は幼なじみの妹ふたりに、「オレが失敗しないように祈ってくれ」と頼む。二人は浜辺に出て、その時間、神島のほうに向かって祈りつづけたとある。盟友だったと言っていい柳田国男の『妹の力』を思い出した。
 ご進講は、予定の25分を天皇の申し出で5分延長になった。その後、神島の木を伐採する案が県議会を通過したことを知った熊楠は毛利を動かして、猛然と中止に追い込む。さらに神島が有名になり、われもわれもと動植物の採集に来るようになる。珍種の宝庫だったらしい。熊楠は毛利と協力して国を動かし、神島を史蹟名勝天然記念物に指定させる。それが決まったとき、よろこんだ熊楠は、「知っているかぎりの小唄や都々逸を一晩中うたいつづけてはしゃいでいた」と娘は言う。その話を疑う気にはまったくならない。あるところにはこういう記述がある。「この3〜4日、2〜3時間しか眠らず。疲れ甚だし。」知力・体力・気力・情力、いづれも異常の人だった。
 神島が史蹟名勝天然記念物に指定されたあと、臨幸記念の石碑とともに、熊楠の歌碑が建てられる。「記念式典の費用なぞ要らないから、そのぶんでかい石をみつけろ。」
 一枝も心して吹け沖津風わが大君のめてましし森そ
 歌碑とする前に佐佐木信綱が添削をしたが熊楠は気に入らず、もとのままに彫らせたという。
 熊楠死後20年ほどして、その傍を通る機会をえた(昭和37年)昭和天皇の御製
   雨にけぶる神島をみて紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ
 そんな時代(君臣という概念がいきづいていた時代)があったのだと感じるノスタルジアを隠す気にはなれない。

別件
 先週、高校の学年会に声がかかった。築200年という旧家に行ってみると10数名が集まっていた。いちばん会いたかった男も来ていた。みな泊まるつもりだからお前もそうしろと言う。帰ろうにも交通機関のない場所だった。夜中になって布団に潜り込んでいたら、ひきずり起こされた。
 けっきょく別れたは翌日の2時すぎ。あいつらはほとんど眠りもせずに20時間ちかく飲み続けたことになる。
 気になっていた小1からの幼なじみがいた。前回会ったときに、配偶者は入院していると聞いていた。
──ご主人は?
──2年前にね、
──そ、ごめんね。
──ううん。
 後半の2行は無声。あとはもう大した会話をした記憶がない。こういうのを何と呼ぶのだろう。