白川学入門(5)

GFsへ 2011/06/25

 『中国の古代文学(一)』を一応めくり終わった。そうとうにくたびれたので、もう(二)はいいかな、という気がしている。(それよりは、はやく『万葉論』を読んでみたい。)
 そのなかで、詩経の説明をしつつ吉川幸次郎の解釈をこてんぱんに粉砕している箇所がいくつかある。「まるっきり勘違いしている」というのだ。(たしか、ひとつは挽歌の部分で、あとひとつは祝婚歌の部分だった)なぜ吉川がピントはずれの解釈をしたのかについても言及する。
 古代詩を理解しようとするならば、その詩に出てくる語句のそれ以前の使用例を確かめてみるしかない。それなのに吉川は、その詩に出てくる語句のそれ以後の使用例や解釈をもとにしている。それでは何もわかるはずがない。
 前回か前々回、吉川たちが白川静の学説を黙殺したのには白川の人格的な問題があったんじゃないかと書いたが、上のように言われたら、つまり学問の方法論じたいがピントはずれだと言われたら、100%軍門に下るか、黙殺するか、どちらかしかなかっただろうなとは思う。
 南方熊楠の手紙のなかに、荒木又右衛門について書いている部分がある。
「荒木又右衛門は鍵屋の辻で20数人を切り、一躍、名人として名を知られるようになった。しかし、実はそのとき剣が折れるということがあった。(小学校のときに見た東映映画では、又右衛門は前もって何本も抜き身を用意していた)」
 そのことを「まだ未熟だ」と批評した男がいるのを知って又右衛門は教えを請いにいった。その男は「伝授されたことは決して口外しません」という誓詞を出すなら教えよう、と言う。つまり、その人物から教えを受けたという証拠を差し出せというわけだ。
 熊楠によると、荒木又右衛門は誓詞を差し出し、数日にわたってその奥義を伝授してもらったというのだ。
 「荒木又右衛門はほんとうの名人だった」と熊楠は結論づける。
 吉川幸次郎はすぐれた学者だったのだと思うが、残念ながら名人ではなかったことになる。

別件
 ついでに、前回書き写し忘れた熊楠の手紙を書く。毛利柴庵への手紙の一節である。
 『摩羅考に就いて』は小生一代の力作也。伏字なしの別刊を二十部刷らせ、東京其他の有志え送りやりしに、何れも受書を寄来る。和歌山よりは貴下(毛利清雅)と多屋二人の外に何の受書も来らず。実に人気(じんき)淪落の地と成たることと存候。
 全集のなかの、この部分だけでも読んでみたいと思いませんか?