ブルース・ウェバー『トゥルーへの手紙』

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  2011/06/28
 録画していた『トゥルーへの手紙』を見た。いつ録画していたのかも覚えていなかったが、いい映画だった。つくったのは何という監督なのかくらいは知っておきたいから、あとでインターネットに打ち込んでみる。いや、監督という言い方はあてはまらない。作者と呼びたい。
 「トゥルー」は作者の飼っている犬の名前。9.11の後、作者が考え、思い出したことを「e-mailではなく、手書きで」トゥルーに書き送る。そこには何かの主張があるわけではなく、むしろ淡々と、脈絡があるのかないのかも判然としないままに語られていくことが、たとえ観客にとっては(この場合はワタクシひとりだけど)どんな意味なのかわからなくても、「この人にとっては大切なことなんだな」と感じさせる。それは、「説得力」というようなせっぱ詰まったものでもない。たぶん、英語でならなにか適当な単語がありそうな気がするのだが、親密さを覚えさせる何か、があった。
 と書いてきて、河瀬直美(?)だったかの、なんとかという映画のイメージにすごく似ていたのに気づいた。日常しか描いていない。その日常の中に、実に様々なものが含まれている。その感覚。・・・いいものを見た。それに、この世界はきっと、もうしばらくは健全でいられる。
 たしか3週間ぶりに飯塚の自宅に帰った夜、なんとなく『カサンドラ・クロス』にチャンネルを合わせると、その他の出演者に、アリダ・ヴァリの名を見つけてそのまま見る気になった。アリダ・ヴァリは食堂車にいたお客さんのひとり。それでも名前が出てくるのがすごい。
 文句なしの娯楽映画だった。しかも中身が濃い、大人向けの娯楽映画。
 ただ、最後まで引きつけられられたのは、ストーリーよりも、ソフィア・ローレンにだった。あんなに素敵な女優さんだとは知らなかった。いや、たぶん、若い頃はあの女度の高さを受け容れがたかったのに違いない。いまならそのまま受け容れることができる。歳はとってみるもんだ。(そういえば、帰りの列車で3歳ほどの男の子を坐らせ、自分は荷物をいっぱい持って立っていた30過ぎのお母さんは実に美しかったな。男の子と席がばらばらになるから遠慮したけど、でなかったら席を譲りたかった。目が合わないようにするために、えらく緊張していたのじゃないかな。)
 日曜日、いつも通り、毎日新聞の置いてある店で昼食をとる。文化欄が朝日、読売、西日本より充実している。池内紀が『ショア(ホロコースト)』についての本の書評をしていた。
 アメリカもイギリスも、ポーランドでなにが起こっているかを把握していた。しかし、知らない振りをした。そのほうが利益になると判断したからだ。─その本からの引用─
 その通りだろうと思う。が、それが結論であるのなら、別段の発見はありそうにないその本を読もうとは思わない。
 自分が知りたいのは、その「利益」とは具体的に何だったのか、だ。そして、当事者たちは、その想定した利益を獲得したり、守ったりできたと自分たちで評価したかどうかだ。
 かってな結論をいうなら、イギリスもアメリカも、「利益」を守ることが出来たのだと考えている。当事者もそうだろう。守ることができたから、当事者は沈黙している。永久に沈黙する。もちろん、ここでいう「利益」は、かならずしも金銭的なものではない。むしろ当事者が、金銭以上に大切だと考えていた「利益」のことなのだが。
 いま気になるのは、難民の流入をこばむことで、アメリカのユダヤ人社会はどんな「利益」を守ろうとしたのだろう、ということだ。そしてそれは成功したのか、しなかったのか。自分には、それもまた成功したようにみえる。もうそろそろキチンとそのことを書ける世代が育っているはずなのだが。こちらが知らないだけなのか、それとも、いまだにキチンと書くことは危険なのだろうか。

別件
 Gが「人間の思索も海の底にしずかに堆積していって、いつか気の遠くなるような時間の経過のなかで変質し、化石燃料のように、何かべつのものになるのだろうか」と、まるで詩のようなことを書いてきた。
 そうかもしれない、けど、その「気が遠くなる時間」がわれわれに残されているということを想像できない。・・・べつに環境問題の話ではなく、自分にはそんな能力がない。
 ただ、われわれは、「気が遠くなるほどの昔」水中で漂いながら生きていた極小の虫たちの思考が変質し、凝結して再び現れたあらたな生命体、いや、メタモルフォーゼなのではないかと空想をすることはある。その幽かな記憶はこの体内にたしかに残っている気がする。