韓国のぽんびき兄ちゃんのこと

GFsへ
2011/06/28
 今朝は少々寝坊。
 いつも通り、玄関のベンチに腰を下ろして新聞をひろげつつ、コーヒーを飲みながら、一服二服する。この家が気に入っている理由のひとつは高いところにあるので空が広くみえること。とくに今朝の空は、薄い雲がところどころにかかった青空で、ひと昔まえなら、「フェルメールの空だ」と言いたいくらい「永遠」を感じさせた。「世界はこんなにも美しいのに」と書いたのは誰だったろうか。
 きょうはまた思い出話をしたい。
 学生時代、韓国に行ったときのことは何度も何度も話した。
 まだ、(いちおう通じる)韓国語を話す日本人が珍しかったころで、やたらともてた。とくに爺ちゃん婆ちゃんにはもてすぎるくらいだった。なにしろ、「ウリマル(自国語)らしきものを喋る日本人が現れた」というだけで人だかりができた。そして、こっちが何とか受け答えをしているのを実見しては、「ホウホウ」と感心する。どうかすると、突然その人垣のなかから質問が飛び出す。一人に答えたらまた別の方角から質問がとんでくる。それは、人間語を話す馬が現れたという趣だった。・・・それにしても、あの人たちはほんとうに人間好きだった。
 ソウルの公園で話しかけてきた若者がいて、こちらが理解していないとわかると別の表現に替える。3通りくらいに言い換えると通じる。そんなことを繰り返しているうちに人垣ができた。そうなると韓国代表の日本人に対する語学特訓は熱を帯びてくる。そうこうするうち「トサンプンは××したか?」と言われたが分からない。2度3度言い直しても分からない。そうなると人垣から韓国代表の若者にヤジが飛ぶ。せっぱ詰まった若者に、人垣の中の中年の人から、「日本人には漢字で書いてやれ」とアドバイスが送られる。「そうか。漢字。漢字。」雪の上に文字を書く。「土産品」
──あ、トサンプン!
 純粋の韓国語だと思っていたから見当もつかなかった。
──まだ、何も買っていません。
 人垣が笑い出すと、その若者は地面に顔をむけて大声で
──イルボン、バカヤロ!
 と怒鳴った。人垣はいっそう笑った。日本人も一緒になって笑った。いい思い出になった。
 戻ってきてからだったと思うが、池谷が近所でクリーニング屋を営んでいる済州島出身のおじさんを紹介した。「オレたちの言葉を話す日本人に初めて会った。感激だ。やっとそんな時代になったんだ。」という。いや、統治時代にも韓国語を勉強した日本人はたくさんいたんだ、といっても、「いや、そんなはずは絶対ない。オレはこれまで、ただのひとりも韓国語を話す日本人に会ったことはない。」
 ホルモン焼きパーティーを企画しているというと、任せとけと、大きな胃袋をどこからかもってきた。「さっき屠殺したばかりだから新鮮だぞ。」まだ温かみが残っていた。
 そのおじさんの話で心に残っていることがあるから書く。
 子どもの頃、済州島から東京にきた。でも、日本語を話す気にはなれず、数ヶ月だまって生活した。
 はじめて日本語を喋ったのは後楽園球場だった。知っている選手が出てきたので、「××だ!」というと、隣のおじさんが「そうだ。よく知っているな。」と答えてくれた。それからそのおじさんに向かって夢中で日本語を喋りまくった。「そのおじさんはオレの話を全部聞いてくれた。」
 規模は違うけど、東京に出て3ヶ月間口をきかなかった経験がある田舎者には、そのときの少年の夢中さがストレートに伝わってきた。
 そのおじさんの持論は、積極的日韓混合論だった。「アメリカを見てみろ。ごちゃまぜの方が強いんだ。」ただし、韓朝混合には反対だった。「あいつらはもう人間じゃない」あのおじさんが生きていたらもう90歳だろうな。
 話をもとに戻す。
 韓国旅行中、ある町の食堂で(なんという町だったかは完全に忘れた)飯を食いながら「ちかくに安い宿がないか?」と尋ねていたら、ちかくに坐っていた兄ちゃんが「オレが知っている。案内してやろう」という。たしか、素泊まり500ウォンくらいだったと思う。
 その日だったか、兄ちゃん(「あんちゃん」と読んで下さい)が来て、いいところを知っているから遊びに行こうと言う。行った先は、同年代の女の子が4〜5人いる、ああいうところを何と呼ぶのかしらないが、男が遊びにいくところだった。そこの、女の子たちが待機している部屋にまっすぐ通された。暇そうで、彼女たちはカルタ遊びをしていた。しばらくすると、「お前も遊びに加わらないか?」と言う。いちばん負けた者がみんなに焼き肉をおごることにしてはどうだ? ああ、そういうことかとゲームをみていると、日本の花札遊びと同じようなルールだったので、OKした。
 勝負は予定どおり日本人の負け。「よーし、焼き肉食い放題にいくぞ!」ぞろぞろ出かけていって、腹一杯プルコギを食って、代金はたしか5000ウォンだったんじゃないかな。1円が10ウォンくらいの相場だったように記憶している。
実はみなで出かける寸前にお客さんがきた。軍服をきたアメリカ人だった。みなで相談してひとり残った。「小学校のとき、こんな級長さんがいたな。」と感じさせる女の子だった。焼き肉を頬張りながら、その女の子が来るかどうかドキドキしていたが、まだわいわいやっている最中に、ちょっと汗ばんでいたけど、平気な顔をしてやってきて、ぱくぱく食い始めたのでほっとした。。
 なんだか、長くなるな。
 つづきはまた明日ということにする。

別件
 自分の部屋が荷物だらけになって、チビたちの寝場所を確保してやるのにも気遣いをしてやらなくてはいけなくなったので、思い切って本を捨てることにした。無津呂先生は「焚書」にしたが、焚き火をするスペースもない我が家では、資源ゴミに出すしかない。
 あれもこれもとひっくり返しているうちに、とんでもないものが出てきた。シンちゃんの『あんたがたどこさ』『フルフルとミディアム』、足立の『とりをのブルース』、小崎の『明治侠客伝 血染めの大蛇』、先住民『さよなら』、絶滅危惧種の額縁入りの絵。そういえば、自分もなにか絵本をつくったことがあったな。思いっきりシンプルな内容だったように思う。まだほかに出てくるかもしれない。
 そのほかにも、居間には、結婚記念にシンちゃんのお父さんが贈ってくれたちぎり絵、階段にはシンちゃんの銅版画(最近はシコシコやっているのだろうか。大好きなんだが。)、わが砦の壁には金沢のカレンダーとFがくれたアフリカ土産の皮の水筒。山小屋には足立の素描。・・・まだ忘れているのものがあるかもしれない。
 それらはすべて残すこととする。
 父親があつめていた、おもに家系に関する文書類はすべて破棄。今後はぼちぼち天涯孤独を目指す。そして、最後には荷物らしきものがなくなっていれば、大成功なのだが。