40年前の韓国のこと

2011/7/5

 その話はもうなんべんも聞いたということも多いかもしれないが、しばらくつき合ってください。なにしろ自分にとってのもうひとつの学校だったのだから。
 はじめて行ったころの韓国は、ちょうど自分が物心ついたころの日本、つまり昭和20年代の日本そっくりだった。貧富の差は極端で、おばちゃんたちはガンガン働いていたし、子どもたちもたくさん働いていた。零下10度の路上で、下着だけで物乞いをしている子どももいた。傷痍軍人の姿も多かった。
 その一方で、ゆったりと暮らしている人たちも多かった。お爺ちゃん、お婆ちゃんたちは偉そうにしていた。金持ちの家には、そこで少し仕事の真似事のようなことをしながら学校に行かせてもらっている子どももいた。慶州の旅館から近くの山に案内してくれた男の子もそうで、「社長」から言われて、朝5時ごろから、その家のお嬢さんと日本人を、懐中電灯をつけて無事に頂上まで連れていってくれた。山道の途中で、バサっという音がしたとき、かれが「あ、ケン!」と言った。雉子だったんだなと分かった。
 旅館の主人は日本語がぺらぺらの人で、最初は英語で話しかけてきたから英語で答えると、「なんだ、日本人か」と言った。夜、部屋にきていろいろな話をした。「退屈ならオレの部屋の本を貸すぞ。」言ってみると、文藝春秋がずらりと並んでいた。本人の弁によると、日本の大学にいたときに反日運動に参加して退学になり、家にもどっても特高が追いかけてくるので、日本の敗戦まで中国に隠れていたという。
──中国人はおもしろいですなあ。国にいるときは隣の家が飢え死にしかけていてもまったく平気なのに、国を出たとたんに愛国者になる。
 その人を「社長」と呼んでいた従業員によると、米軍と関係をつくって商売していた会社をまるごと売って旅館をたて、その経営は従業員にまかせて「釣りばかりなさっていらっしゃいます。」。
──日本はどうなってしまうのかな。もうオレにはどうでもいいことなんだがね。
 あの時、なんと返答したのだったろう。たぶん、「日本は捨てたもんじゃない」という意味のことを言ったと思う。その根拠もちゃんと述べた記憶があるのだが(この人には、いい加減なことを言ってはいけない、と感じた)、もう思い出せない。山登りに誘われたのは、その次の日だったはずだ。
──ちょうど大学生の娘が帰ってきている。あいつにも一度登らせたかったから、いっしょに行ってくれないか。
 あるいは、ひょっとしたらという親心があったのかも知れない。
 山登りをした日の午後、宿を出ていこうとしたら、一人でケンケン遊びをしていた男の子が遠くから手を振った。こちらも手を振り返した。あの子ももう50歳くらいになっているはずだ。
 貧しい子どもたちは働くのが当たり前のようだった。あの、どこだか覚えていない町で出会った女の子たちもそうだ。彼女たちは働いていたのだ。労働をしていたのだ。
 「級長みたい」な子は、ひょっとしたら学資を貯めていたのではないかと空想することがある。「4年分の学費と生活費を貯める」。なにか意志の強さを感じる女の子だった。兄ちゃんから「どの子がいい?」と言われたとき、たぶんキッとなったのだろうとは思うが、すでに心が傾いていたから、見透かされたような気がしたのかも知れない。。
 ソウルで出会った帰還兵もそうだった。ベトナムに特殊部隊として従軍し、任期を終えて除隊したのだという。物静かなその青年の言うことをそのまま信用した。「お金が貯まったから、これから受験勉強をしようかな。」戦死した者には慰弔金が、任期を全うした者にも多額の慰労金が渡されるという話だった。その青年は文字通り、一か八かの賭けをして、自分の人生を切り開こうとしたのだ。

別件
 録画していたウィンブルドン女子シングル決勝をみた。新聞でみたスコアからクビトバが一方的に勝ったのかと思っていたが、さにあらず。テニスの奥深さを感じさせられて見飽きなかった。勝負の行方は紙一重だったようにみえる。
 まるでイングリッド・バーグマンを思い出させるシャラポア(7年前はそんなことまるっきり感じなかった)。ギリシャペルシャの戦士が壁画から出てきたようなクビトバ。来年もういちど二人の戦いを見たい。