『モランディの手紙』

2011/07/06
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 『ジョルジョ・モランディの手紙』(みすず)を唐突に読み終えた。というか、まだ続きがあるつもりで紙をめくったら、あとは注釈だった。なんだか 呆然となった。
 こんな読み終わり方をしたのは、学生時代の『イワンデヴィソニッチの一日』以来のことかもしれない。あのときも、まだ読みつづけるつもりで頁をめくると白紙だった。
 『モランディの手紙』の印象は、書簡集なのに、サマセット・モーム『月と6ペンス』にもっとも近い。モランディの静物画が好きなものには、「そぐわない」と思われそうだ。読後感が重いし、つらい。なるほどこれが、イタリアのもう一面か。
 本は大きく分けると、三部構成になっている。第一部はモランディ自身の手紙。第二部はモランディについての様々な評論。第三部は(ここを勘違いしていたのだが)モランディについての評論を書いたが、それが公には出ないままになったアルカンジェリのモランディへの手紙、その他。
 アルカンジェリは新進の美術評論家で、自分のデビュー作を「モランディ」と定め、書き上げたものを画家に献げるが全面的な拒否にあう。画家の許可を得ぬままに出版しようとしたが、モランディは出版社から原稿を取り上げてしまう。すでに世界的な評価の定まっていたモランディの行為は、一人の新しい美術評論家の死を意味した。じっさいに画家の死の5年後、アルカンジェリはモランディの妹あてに、事実上の遺書となる長い長い手紙を送って、自殺する。
 その手紙の末尾の部分を引く。

 モランディにたいしていったいどんな罪を犯したのか、わたしは、じぶんの意識のなかに探そうとしてきました。・・・が、いかなる罪もみつかりませんでした。・・・ブランディ(あとで引用する評論家)の後にはわたしのテクストが必要だと、確信もしています。・・・
 あなたとあなたのご姉妹にただ感謝の意を伝えたいと思います。なぜなら、わたしはモランディを愛したように、フォンダツァ通りのあなた方の家を愛し、あなた方ディーナとアンネッタとテレーザをいとおしく思ってきたからです。あなた方も、わたしの愛する憐れなビアンカとガエターノにキスを送ってくださいますよう。そして、もしもそう望んでいいのなら、少なくとも何度かは、皆さんでわたしたちのことを思い出していただきますよう。ちょっとした不運、苦い不運だったのですから。
 心より愛をこめて
 
 新進の美術評論家が意図したことは、モランディを美術史のなかに正当に位置づけることだった。が、モランディは、自分が欲する先人以外のだれとも関係づけられることを拒否した。
 そのことは、生存中から与えらえた「ボローニャの隠者」「名聞を棄てた聖人」というイメージを守ろうとしたからだ、という側面もありそうな気がする。が、それ以上に、美術史の相関図のなかにくみこまれてしまうこととは、けっして認めるわけにはいかなかったのだと思う。モランディはモランディのままでいるために、あらゆる力をふりしぼろうとした。
 モランディの静物画の展覧会がはじめてアメリカであった一年後、同じ会場でアンディ・ウォーホールポップアートが発表され、以後その美術館はポップアートの殿堂になっていく。
 が、かれらに与えた影響について訊かれたモランディは「わたしにはまったく関係ない」とにべもなく応える。ほんとうに、すくなくともモランディにとっては、まったく関心のないことだったのだ。
 いっぽう、どうやら半ば強制的に書かされた若い頃の自伝には、「近代の画家のなかで、栄光あるイタリアの正当な後継者」のひとりに、セザンヌをあげている。セザンヌの名は書簡にも何度も出てくる。
 アルカンジェリ以前にモランディの評論を書いたブランディの、モディリアニの影響への示唆にたいしては「いや、なかった」とその部分の削除を求めたという。
 モランディは基本的にはフォルムのひとだと思う。セザンヌからかれはたぶん、内側から盛り上がってくるフォルムを学んだ。モディリアニはただひとつのフォルムを求めた。あえて言うなら、モランディはモディリアニから詩を学び、セザンヌから絵を学んだ。「自分の画業にモディリアニは影響を与えていない。」
 モランディは、自分の絵画を文学から独立させようとしたのだ。絵そのもの以外の意味を付加されることを慎重に拒否したのだ。(そうすると、なにかモランディの絵画が哲学めいてくるのは、決してかれの意図ではあるまい)だから、自分の絵に歴史的脈絡を与えようとするアルカンジェリを完全に拒否し、葬り去った。
 たぶん、若いアルカンジェリは、モランディとの距離の取り方を心得ていなかった。極端にいうと、それだけのことではなかったかとも感じるのだが。
 次回に続きます。
 
別件
 芥川喜好の父親は銀行員だったそうだ。1948生まれ。早稲田卒業。なんだ、sの同級生だった。最初、独文に入り、それから美術史に移る。本人に言わせると「とにかく役に立ちそうにないことをやりたかった」なんだか、高円寺や中野に出入りしていても不自然じゃない青年だったような気がしてきた。