白川静『回思九十年』

2011/07/17

 「漱石の、もっとも東洋的風韻に富むといわれる『草枕』を読んだとき、私はかつて廣瀬先生(廣瀬徳蔵。のち帝国議会議員)のところで読んだ『エイルヰン物語』のことを想い出した。それで漱石の初期の文章を調べて、漱石がこの物語について長文の紹介を試みていることを知った。当時イギリスでベストセラーになった書で、東洋的な神秘主義を含んだ作品ということであった。『草枕』はおそらくそれを奪胎したものであろうと思った。ここには、低徊趣味といわれる、東洋のひとつの風雅があった。
 岡倉(天心)の東洋はインドに偏し、前田(利鎌)・久松(潜一)の東洋は禅に偏し、漱石の東洋は風雅に偏している。蘭学者たちが、西洋の実利尊重の文明に対置した東洋の精神とは、もっと素朴であり、自然と調和したものであり、汎アジア的なものである。より限定していえば、東アジア的なものであり、漢字文化を共有する文化圏のなかで築かれた、共通の精神的風土である。
 それは具体的にいえば、東洋の古代の文学、古代の思想のなかに、その原体験を示しているのではないか、そして陶淵明のあの二句==迹を風雲に寄せ 茲の慍喜を䉤(す)つ==は、そのひとつの極致を示しているものではないか。
 私の視点は、次第に東アジアの古代、その古典古代ともいうべきものに、焦点を向けるようになった。そこには『詩経』と『万葉集』とがあった。 」
      ──京阪商業卒業時。立命館入学以前──

 あと一カ所を引いて、本日の報告とする。
 「 愚かしい戦争であった。まことに世界の戦史に類例をみないような、愚かしい戦争であった。奇襲は成功するのがきまりである。その次に息の根を止めるのでなくては、戦略とはいえない。
 いわゆる大東亜戦争は、中国の歴史や文化に何の理解もない軍部が、何の理念もなく気まぐれに展開したものである。東洋の理念を求めつづけている私にとって、それは見るに堪えぬ自己破壊の行為であった。しかし軍部を批判する者はあらゆる迫害を受け、殺された。戦争史を教えるならば、まずわが国の軍部独裁の歴史を教えるべきである。・・・(中略)・・・戦果の発表は、大東亜戦争以来、十分聞き飽きている。本土を攻める法がなくして、どうして勝利することができよう。私は次のニュースとして、パナマ運河の爆破をひたすらに待ちつづけたが、それは空しいことであった。事はすでに、その段階で終わっていたのである。 」

 昭和十八年についての記述「初期三篇」(平凡社ライブラリー40p〜41p)は、すっごく面白いところだけど、すこし長くなるから、べつにコピーをつくって送ります。

別件
 やっとセミの鳴き声がしはじめた。ただし、「やかましい!!」というほどではない。この夏はあまり暑くならないうちに終わるのではなかろうか。