白川静『回思九十年』(2)

 2011/07/19

 昨日はなんだか不思議な日だった。
 朝5時に目がさめて、テレビをつけて、「やっぱりここまでか」と思いつつ、散歩に行きたがっているチビたちをなだめながら最後までみた。
 サッカー自体についてはよく分からないので省略。
 ただ、ナデシコたちを見ていて、「日本にはまだ、こんなにたくさんの種類の顔があったのか」とほっとした。最近ずっと気になっていることだったから。
 野菜の味がどれもこれも特徴を失いだしたのと比例して、日本人の顔がみな似てきた。(書呆子がまた、独断と偏見、と言うかな)テレビに出てくるタレントは、それぞれの時代の好みがあるだろうから仕方ないとしても、野球選手やサッカー選手まで若手はみな同じような顔に見える。それが不思議でならない。
 かろうじて相撲取りたちは、まだひとりひとり独自の顔を持っている。われらが文化の最後の砦なのかもしれない。
 古い顔がいなくなった。街を歩いていても、地下鉄に乗っていても、そう感じる。ただし、筑豊電鉄(というのかどうか。だい3セクターになった旧国鉄の路線)に乗り込むと、とたんに昔ながらの顔がずらっと並んでいて感動的だ。その落差がすごい。
 だけど、ナデシコたちは、いわば旧日本人的だ。最初にメンバーを見たときは、「こりゃ、名古屋から関西近辺の顔が揃っているな」と感じた。あたっているのかどうかは知らないけど。

 彼女たちに元気づけられたので、前回「もうコピーを送ろう」と思った部分の要約をします。白川静の最初の論文(1948年)の内容です。
1,京都大学平岡武夫への批判。
 卜辞は単なる王者の日常的記録なのではなく、卜占による王の神聖化であり、その神聖的支配に直接関与する機能をもつ。──「卜辞の本質」
2,京都大学小島祐馬博士へ批判。
 「乱は治なり」というような、一字のうちに同時的に正反の相反する両義をもつ文字の用い方(=反訓)を「中国古代における弁証法的思惟の結果」だという議論は、ほとんど観念の遊戯に近い。反訓の代表例とされる「乱は治なり」は、もともと「乱」は「糸のほぐれ(舌の原字)を骨ベラ(おつにょう)で治める」形で、「乱と治は同義だ」と言っているのに過ぎない。「乱」を乱れるとよむのは古くからの誤用である。──「訓詁に於ける思惟の形式について」
3,貝塚茂樹「殷代牧畜社会説」への反論。
 殷代の祭祀に、犠牲として牛羊の類が多く供せられていろうから牧畜社会だったというが、牧畜社会における畜養の数はケタがちがう。
 甲骨文には受年、受黍年のように、収穫を卜するものは多く、直接の経営地や祭祀用の儀礼的農耕もあり、殷の社会が安定的な農耕社会であることは疑いない。

 白川静の回想によると、まだ無名だったため、だれかが別名で批判論文を発表したのかと疑われたとある。

別件
 前言訂正
 NHK番組によると、小林秀雄ゴッホと運命的な出会いをしたのは、1947年の東京で、見たのは複製画。それから幾らもたたないころに『ゴッホの手紙』を書いている。その後その複製画を購入して見つづけたのだそうだ。だから、「ホンモノを見て、それほど感動しなかった」の意味は、こちらの完全な勘違いということになる。
 ただし、1947以前にゴッホの絵に接したことがないとは考えられないから、上の話は一種の伝説のような気がする。