63才の誕生日

2011/08/02

 本日をもって63才。
 みなほとんど同い年なんだから、別に自慢するべきことでもないんだけど、中学校の同級生Kにならって、「オレたちはよく生き延びた」ことを、お互いに祝福いたしましょう。
──すごいねぇ。
 あと半年したら自分も63になることを忘れている。今晩は赤飯を炊いてくれるそうだ。
 
 小学校の高学年から中学にかけて、石原裕次郎のファンだった4つ上の姉のエスコートをして、よく映画館に行った。お陰で、裕次郎の映画なら大抵はただで見ている。もちろん、こちらは、裕次郎はどうでもよく、芦川いづみや、笹森礼子を見るのが楽しみだった。いまのシャープのCMに出てくる女優さんを知ったのも、たぶん併映されていた『ガラスの中の少女』でだったんじゃなかろうか。
 当時の飯塚では10代の男女が一緒に歩いているだけで立派な不良扱いをされた。で、あんちゃんたちからすぐに冷やかされたけど、いつも堂々と路の真ん中を歩いた。「また勘違いしとる。」子どものころから年齢より上に見られることには慣れていた。今年会った小学校の同級生によると、「やっと、自然に話せるようになった。」のだそうだ。
 今日はそんな話ばかりします。

 小学校5年生のとき、「児童事務局」というのができて、5年生からもひとり立候補せよという話になり、いきさつは忘れたが立候補して当選した。そのことを家に帰って報告したら親がびっくりして学校に行き、辞退ということになった。わが人生最初の挫折だった。以後、なんだか斜にかまえて生きた記憶がある。そうとうに扱いづらい、ひねこびた小学生だったろうと思う。
 中学生の時に弟といっしょに写った写真が残っているが、自分でもその大人びかたには違和感を覚える。
 高校一年の夏休み、「嘉飯山(かはんざん)地区キャンプ指導者講習会」てな催しのポスターを見つけて応募した。出かけてみると、嘉穂からは自分だけだった。(嘉穂は今年、創立110周年なんだそうだ。ちょっとさばを読んどらせんかと感じる)8人ずつくらいの班割ができていて、班長を決めろという。で、班長になった。あとで訊くと上級生ばかりだったので、いまさら一年生だとは言い出せぬままになった。
 教員になって、廊下で出会った女の子がじっとこっちを見つめてから溜息をつき、「先生がせめてあと10年若かったらねぇ」と言った話は、面白かったから何度もした。10年若かったらその子とほとんど歳は変わらなかったはずだ。(その子は地場銀行の秘書課勤務になったところまでは知っている。「よかったじゃないか。」というと、顔をしかめて「爺さんばっかし。」と言ったのがおかしかった)
 同じ頃、ある生徒が放課後の職員室で、「先生は何歳くらいねと訊かれたので40代やろと答えときました。」と言う。そばにいたGが「失礼なことを言うな。」と言うと、「あれっ、すみません。50代だったんですね。」という。もちろん30代前半の思い出である。
 宗像の学校に行っているときだから、まだ30代前半のとき。時間が空いたときはバスに乗って探検の旅をするのが楽しみだった。
──空いているところに坐ってください。・・・空いているところに坐ってください。・・・坐ってくださいち言いよるでしょうが!!
 自分が言われているのだとは思わなかった。
 いまの「おかあさん」とはじめて会ったとき、すでにNさんから聞いて事情が分かっていたそうで、「どんな人が来るんだろう」と思っていたら、「ただのオジさん」が近寄ってきたのでビックリしたそうな。その「おかあさん」と結婚した直後、満員列車のなかで教え子がすぐ傍に立っているのに気づいたが、むこうは目を合わせないように必死で気を配っている。あとで、「なんで挨拶しなかったのか?」と言うと、「いやあ、、、」。たぶん年齢が違いすぎるので、不倫していると思ったのだ。
 天神でバスを待っているとき、隣に坐っていた80ちかそうなお婆さんから、「人生経験の豊富な方のようにお見受けいたしますので、ご相談いたします。」と受けた人生相談は実に深刻だった。息子ふたりの借金を払い続けているうちに、主人が残してくれた貯金が尽きた。あとは家しかない。銀行は、「幾らでも貸す」という。どうしたものかと思うのだが、息子たちはどちらも逃げるばかりで相談に乗ってくれない、という話だった。バブルの絶頂期だった。「家を担保にお金を借りるのはいけない。それくらいならきちんと売って、そのお金で一生生活できる老人ホームに入るほうがいい。」・・・が、たぶん、あの方は銀行からお金を借りて、また息子の借金返済に充てただろう。
 二人で植木市に出かけたのも同じ頃だった。今の家に何か木を植えたくなって見つくろっていると、声をかけられた。
──その木ならうちにあるから、ただでやる。ほかにも嫁さんから「減らせ」と言われている木がいくらもあるから見に来なさい。お茶くらい出すから。
 その後が面白かった。
──どうせ、ああたも時間をもてあましとうとでしょうが。
 まだ40過ぎの頃だ。

 今年になって、母上ピンチのとき、入院先の看護師長が戸惑って、「奥さまでいらっしゃいますか?」と躊躇しながら質問した話は報告した。
 その後またグループ・ホームに戻って、母上のご機嫌伺いに出向いて他の方と一緒にテーブルについていたとき、遅番で出勤してきた介護士のノブちゃん(子どもの頃からよく知っている人)が不審そうな顔をしたから、
──新しい入居者かと思うたろが!
 と言うと、
──だって、ぜんぜん違和感がなかったとやもん。
 ついにそこまで来たか。

 これから先がどうなるのかは皆目見当もつかないが、とくに気に病むこともなさそうに思う。すでに一日のうち半分以上は寝てくらしている。その時間が好きだ。だから、寝ている時間が一日の3分の2になったからといって、特に何が変わるのだとも思えない。少なくとも、「時間をもてあます」暇はないままに進んでいきそうに感じている。
 もし、「退屈で仕方がない」時間ができたとしたら、それがもっとも贅沢な時間なのにちがいない。

別件
 昨夜は大濠の花火大会。
 破裂音がにがてなピッピは家のなかでおとなしくしている。ふと気づくと足元で二匹とも横になっていて、ガロはピッピからなめてもらっている。
 平穏というのはいいものだ。