8月6日

2011/8/6

 昨日から一泊二日の独身生活。今年になってはじめてじゃないかな。
 20年以上まえ、中津のおっかさんが福岡に引っ越してくることになった時、「もうさみしい思いをさせんからね。」と言われた意味がわからなかった、という話は何度もした。その時はほんとうに分からなかったのです。
 「おかあさん」が年に一度の一泊旅行をするようになった数年まえから、やっとその「さみしい思い」が復活した。なんともいいですなあ。とくに今年からは、なにより、誰とも口をきく必要がない、というのがいい。いや、それがけっこう、わが家の精霊たちがまつわりつくので、疲れるのです。
 本日は8月6日。ラジオからは子どもたちの、あれは何といったか、みなで順番にセリフを言うやつ、があっている。一生懸命に「平和への誓い」を覚えた小学生たちには申し訳ないけど、その内容も言い方も、なんというステレロタイプ。「チガオウガ!!」あの子たちは、これからずっと、今日の言葉をもてあそんだ経験に拘束されて生きる。教員も親も、たぶんそのことの恐ろしさに気づいていない。  その続きが日本国政府を代表した総理大臣。そのことばの空虚さ。たぶん、いまだに、市民運動(=善)と国政(=悪)との違いに気づいていない。いや、違いがあるという考え自体を無意味だと思っていることだろう。

 修猷館がスキー修学旅行の際に東北の被災地によるかどうかでもめているという。「そのプランは館長のパフォーマンスなのではないか」という意見まで出たというのだが、さすがは修猷館だと敬意を覚えた。
 なんでそんな話になったのかというと、東北の被災地で中学の修学旅行ができるようになったのはいいのだが、ディズニーランドに行く予定だったのが、援助をしてくれた東京の人たちにお礼を言いにゆくイベントに切り替わったというので、「そりゃおかしいやろ」と、こっちが言い出したのがきっかけだった。中学生たちをディズニーランドに行かせてやれ。なんの不都合があろうか。折角の楽しみを「教育的」なものにしようとする政治家的教育者へは唾を吐きたくなるほどの嫌悪感を覚える。
 修猷館の場合は、プランがよくわからないので保留。もし、被災地の高校生たちと交流をもつ、というプランなら反対。好きなだけスキーをやらせろ。
 ただ、スキー場にゆく途中、あるいは帰りに、被災地を通るコースに変更するというプランなら賛成する。列車でもバスでも、別に何をすることも要らない。寄り道もしない。説明もしない。ただ通り過ぎるだけ。・・・あとは高校生たちに任せておけばいい。
 あの光景を、あの光景とおなじ高さから見ただけで、何かが変わるはずだ。その変わることを「ソートされる」と呼ぶ。

別件
 ラジオが、ヒロシマから甲子園に変わった。
 高校野球はラジオできくにかぎる。