インテリジェンスちゃ何か?

2011/08/17

 Fから「能代商残念」のメールが届いたので、サヨナラ負けをしたことは分かっていたが、今朝の新聞をみてびっくり。高校野球はドラマチックすぎていかん。が、能代のピッチャーはわが好みだったな。いまどきの女の子にとってはどうなのだろう?
 NHK『人間の条件』はパスすることにした。ちょろっとだけは見たのです。とくに新珠ミチヨを見たくて。で、ちょろっと見たからもういい。なにかが違う。
 「仲代達也とはこの程度の役者だったのか、、、、、、」こちらのほうが遙かに年上になってみると、ガキっぽくて見ていられない。新珠ミチヨも同前。めちゃくちゃにおおざっぱな言い方をすると、インテリジェンスを感じない。そのことにぎょっとなった。だとするならそれは、単に俳優の問題なのではなく、企画し、演出をしている小林正樹の問題でもあるのだろう。だいたい物ごとはそんな具合にできている。そんな具合とは、あることを形にしよう、オレにならできると思い、それを実現する人は、その「こと」に対してどこか欠けた処があるということです。別に「だからダメなんだ」という話ではない。大抵のものごとはそういうふうにして前に進んでいく。だから、そういう人材は必要なのです。
 オレが仲代達也に欠けていると感じたインテリジェンスちゃ要するに何か?
 チャンネルを替えてそのまま仰向けになったら浮かんできただけのことだから、その程度で聞いてほしいが、それは以下のようなことではないか。
 知性というのは、現実との微妙なズレをもたらすものだ。というか、そのズレを作り出すのがインテリジェンスなのだと思う。そのズレは、カメラの手ぶれのような左右のズレなのではなく、前後感覚、深度のズレ。外側から観察してもそのズレはわからない。ただ本人にとっては、目の前に見ている現実をいくつもの重なった焦点でダブらせながら見ている。つまり、焦点距離が二重三重になっているかのような人格的深度のズレのことだ。
 例の我が師からみられたとき、何を見られているのか分からなかった。だから、開き直ってその前に坐っているしかなかった。自分にとっての「インテリ」とはあの目のことだ。そういう視線は、必ずしも大人だけのものではない。子どもの中にもその目をもっている例がある。
 仲代達也はそんな目を持ち合わせていない。つまり、「見たいものだけが見える」タイプの目だ。
 五味川純平にインタビューしたひとの感想に、「戦争をやらせたら上手そうだと感じた」というのがあったのが印象に残っている。たぶんその通りだった。いっぽう、仲代達也の部下たちの生き残り率はそうとうに低かっただろう。小林正樹の部下たちも。

別件
 学生時代の韓国語の先生に連絡がついた。文化団体の役員のなかに名前を見つけて手紙を書いたら、ソウルから返事が届いた。内容の半分はご主人の健康のこと。
 そして、「良き、若き時代でした」とある。
 思いだしてくれただけでうれしい。
 最後にソウルの電話番号が書いてあって、「いつか韓国にいらっしゃる時がありましたら、どうぞご連絡ください」とある。
半世紀前と同様にずうずうしく連絡しちゃうぞ。