相聞歌は挽歌のあとで生まれた─山本健吉─

2011/08/21

 白川静『回思九十年』(平凡社ライブラリー)対談篇より

○大正という時代は貧しく暗い時代でした。米騒動、シベリア出兵、関東大震災がありました。
○わが国の文学には、自然主義の作品などにも、女性的ななよなよしたところがあって、どうにも入り込めないところがあるのですが、菊池寛の短篇だけは、読みやすく思いました。・・・大正期のあの鬱屈しと正面から対決するような作家は、イデオロギー作家を除いては、あまりいなかったのではないかと思う。寛の短篇の、あのいくらか粗雑に見える文章も、むしろその内容にふさわしい力強さをそえるもののように思われました。
 私はのちに学園で、いろいろのことを経験するのですが、寛のもっとも初期の作品であるところの『形』という小篇は、私に限りなく勇気を与えてくれたものです。この作品を想い出すとき、私にはおそれるべきものはなかったように思います。
津田左右吉氏の古代史研究は、戦後には大変評価の高いものであったのですが、研究そのものとしては・・・機械論的唯物論とでもいうべきところがあるのです。・・・古代を論じながら、古代学的な方法をまったく欠如しているのは、ふしぎとしかいいようのないことです。
○文学のうえでも、たとえば『万葉』の世界は人麻呂から家持までまったく等質の世界とされて、歌における意識の形態について、なんの展開も考えられていません。しかし、歴史的文化的なもので、なんの展開もないようなものは存在しないのです。
○──芥川には『杜子春』など中国物がいっぱいありましたね。
 ──面白いけど、きれいすぎるね。中国を扱うには、剃刀を使うようにやらず、鉈割りみたいな調子でやったほうがいい。そんなに繊細な国じゃないからね。
○──戦争を占って「吉」と出たのに負けた場合は、誰が責任をとるのですか。
 ──それは神様が罰を受ける。神様の聖所が壊される。
 ──神を使役するわけですね。人間のほうが神より偉かったんですか。
 ──だいたい神様は傀儡やからね。
○──易占いを時々やってみると当たるような気がするんですけど、これは偶然ですか。
 ──占う人に能力があれば当たるので、易がそういう能力を持っておるんではないと僕はおもうけどな。
○日本には、古典の世界がない。記紀・万葉をやかましく言い出すのはずっと後の話で、常に文学者の意識にあったわけではない。つまり、古典がなかったことが、日本の一つの宿命になっている。・・・日本の文学がこういう性格(家元制のように歴史的運動性を否定する形)を体質的に持つようになった最初の分岐点を、僕は大伴家持で考えてみたい。
○手紙こそ書家が自分の生命をかける場所だと思う。書の本来のあり場所だとね。・・・文字が単なる記号であるなら、「書」として自己表現の場をもちえるという根拠は、なくなってしまいます。

別件
 横浜高校の校歌がなつかしくなって、グーグルにそのまま入力した。作曲したのは、箕作秋吉。箕作阮甫の曾孫とあった。