「游」は人が旗をもって外に出歩く形

2011/08/23

白川静『回思九十年』(平凡社ライブラリー)対談篇より(続)

○人麻呂が、はじめて歌を書きしるした。・・・日本人ではじめて歌を表記したのは人麻呂です。
屈原の『離騒』は、楚の国の巫祝集団が亡びていく過程を、過去の栄光とともにうたっている。
○『字通』では、ぼくは「東洋」の文例をずいぶん探しました。しかし、あの(佐久間象山岡倉天心の)「東洋」はないんです。・・・中国人が東洋という言葉を使うときには、だいたい日本人を軽蔑したときのいいかたです。僕らが理想とする「東洋」が含んでおる理念的な内容と、現実に中国にある「東洋(福建省あたりの海上行路もしくは日本)」とは、かけ離れている。・・・日本の志士とも交わりがあった黄遵憲とか康有為とか、梁啓超とかは、西洋に対する東洋という考え方を持っとるにちがいないと思って、ずいぶん探した。でも、とうとう出てこなかった。

『文字逍遥』より
○遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。游(遊)は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。神とともにというよりも、神によりてというべきかも知れない。祝祭においてのみ許される荘厳の虚偽と、秩序をこえた狂気とは、神に近づき、神とともにあることの証しであり、またその限られた場における祭祀者の特権である。

別件
 2週間後にニュージーランドではじまるラグビーワールドカップ日本代表に、三陽OBの上田泰平が選ばれた。べつだん自分が教えたわけでもなんでもないんだが、気になって、昨日はずっとスカパー!を見ていた。
 日本は相当に強くなったとは思うものの、グループリーグでは、一勝をするだけでも大変だ。来月は、サッカーのオリンピック予選と並行して忙しいことになりそうだ。