「存在は義務だ(ファウスト)

2011/09/14

 ニーチェは・・・徹底的に道徳上における2潮流を截別確立している。すなわち、いわゆる君子の道徳と奴隷の道徳とである。・・・換言すれば、貴族にとっての幸福は活動である。これらの貴族が、彼らの支配する平民の群れを誤解し、軽蔑することは避けがたいことである。それにもかかわらず、彼らのうちには、蹂躙されたる階級、労働者、駄荷負う者に対する憐憫の情、休息と無活動の安息日を唯一の幸福とする者らに対する寛恕を認めることができる。これに反して、下層階級のうちには、憎しみと怨みによって捻じ歪められ支配階級の相(すがた)が必ず流行している。この捻じ歪めの裡に復讐が潜む。・・・われらは、・・・次の定義を作ることができる。──充実せる生命は同時に、物を散ずる力である。(これに反し)・・・ニーチェキリスト教倫理において、彼のいわゆる奴隷道徳の最も完全なる表現をみる。・・・ルネサンスは完全に、キリスト教道徳よりの解放であり、ユダヤ教に対するローマの勝利である。・・・ 
 ゲーテの『ファウスト』は、キリスト教より異端教への回帰を讃美する。それは、魂を解放し、伝統的信仰と伝統的道徳の覊絆を破壊しつつあるルネサンス精神を示すものである。・・・この精神は・・・第17世紀の間、一般世界のうちには窒息せしめられたように見えた。・・・しかし、ゲーテの主人公は、あまりに長くキリスト教的伝統の不本意な弟子であった心の、この第2の浪漫的な(冒険的、原本的、生命愛の)解放を具体化している。・・・充実緊張せる生命は力である。しかして、この力がそのまま美でありまた善であるのである。──「存在は義務だ。それが刹那の間でも」(『ファウスト』第2部)
──前田利鎌『ファウスト』の哲学的考察(東大哲学科卒業論文)より
                     『宗教的人間』所収──

 また急に暑さがもどってきた。そうすると、一時期途絶えかけていたセミの鳴き声が復活した。下の公園では、桜の落葉とセミ時雨とがオーバーラップしている。生殖活動にはそれぞれの適温というものがあるらしい。

別件
 「バドミントンに必要な要素には、体力的な面と、技術的な面と、精神的な面と、戦略的・戦術的な面とがある。だから僕はまだ強くなれると思っている。・・・調子が悪いときに、急に調子を取り戻す方法なんてない。調子が悪くてもくじけない芯の強さのようなものが必要なんだ。大切なのは、その調子の悪い自分を受け容れられるかどうかだと思う。だから僕は、調子が悪いときも嫌いじゃない。」
    ──ピーター・ゲード(デンマークのバドミントン選手34歳)──
 ロンドンの世界選手権準々決勝では、第一ゲームを17対21で取られ、第二ゲームは21対19で取り返し、第三ゲームは21対13で勝った。勝負がついたあと2人ともへたり込んで、しばらくは立ち上がろうとしなかった。が、ラリー戦に持ち込んで前世界チャンピオンの消耗を狙うという戦略がある程度成功しかけたのに自分の方がさきに集中力がきれ、負けて四つんばいになって実に明るい顔で笑っていた若いベトナムの選手は、この次は勝てるんじゃないかと感じた。