大乗仏教は徹底したリアリズムだ

大乗仏教は徹底したリアリズムだ

2011/09/23

 「有限性のなかにあって無限なるものと合一し、あらゆる瞬間に永遠であること」というシュライヘルマッヘルの定義した宗教の本質、宇宙の直観、全体への帰依の感情と意識とは、人間性の核心に巣くっていて、なかなか根絶しがたいもののように見受けられる。
・・・が、日本の白隠は、永遠の世界を「雨は降り出す、干し物濡れる、背中でガキゃ泣く、飯ゃこげる」と説明した。(大乗仏教は徹底したリアリズムなのだ。)もしこの端的を神秘というならば、この神秘の世界ほど、何の理屈も造作もない、張りのある活発々地な現実性をもったものはないだろう。常識人にはちょっと受け取りがたい禅門における頓悟ということも・・・抽象的な理論でもなければ、独断的な信仰でもない。それはわれわれにとって最も直接的な体験の世界だからである。・・・現に無門和尚は「門より入るものは家珍に非ず」と喝破した。・・・何ら跪拝すべき偶像も頂かず、何ら窮屈な律法も樹てない・・・こういう仏教が果たして通俗的な意味で宗教といえるかどうか疑問である。しかし、先に引用せられたシュライヘルマッヘルの定義に、ある点まで合致する意味において、仏教もまた宗教といいうるかもしれない。
< 中略 >
 不立文字の体験を第一義とする仏教を学的に研究することは、・・・自殺でなくて何であろう。
 古来から偉大な仏教との努力は、仏教の本質を森林から街頭へ、講壇から大衆へと引きずりおろしてくることではなかったろうか。
──前田利鎌『現代仏教の清算』昭和5、2,3──

別件
 もと町内会長のNさんは、チビたちが気に入って、散歩のときも「出会ったときのために」ポケットにジャーキーをしのばせている。そんなわけでチビたちも大好きで、とうとうNさんちを見つけてしまった。それ以来、いつもNさんちに行きたがる。チビたちが姿をみせると、「ほう、よう来たね。」とおやつをくれる。
 ある時は、Nさんがいないので、「今日はおしまい」と通り過ぎようとしたら家の中から「ガロ! ピッピ!」。精霊たちは大喜びである。
──まだ働きよらっしゃあとでしょうな? お幾つですか?
 「オレを町内会に引きずりこむつもりやったとかなぁ。」というと、絶滅危惧種が、「なん言いようとね。老人会に誘おうかち思いよんしゃったとよ。」
 数日前も、Nさんちの玄関のところで二匹揃ってお坐りして「Nさんが出てこないかなぁ。」と動かない。すると、たまたま奥さんがドアをあけてチビたちに気づき、大きな声で中に言った。
──ねぇ。お友達が二人も来とるよ。二人ともおりこうさんよ。

別件2
 一昨夜、家にもどってから、絶滅危惧種が感嘆の声をあげた。「いい手紙よぉ。」Mさんの奥さんの書いたお礼状だった。ほんとうにいい「手紙」なので、ここに載せておきたい。
『喜びは倍以上に、悲しみは半分に。出逢えた幸せに感謝をこめて』
 「勝った」「負けた」と盤をはさんで、お仲間と楽しそうに対局する夫の姿が思い出されます。どんなに体調が悪くとも、大好きな将棋ともなれば話は別。時間を忘れて熱中しておりましたので、この入院中も早く回復して自宅で将棋を・・・そんな一心だったのだと思います。
 「帰りたい」との願いが叶わぬものとなってしまったことが残念でなりません。
 夫○○は、吹く風が秋の訪れを告げる平成23年9月19日、満70歳にて空の彼方へと旅立ちました。
 病が分かってもうどれ位になるのでしょうか。
 人生を謳歌しようと、あれこれ制限することもなく、夫は好きなものを口にし、私は海外へも足をのばして大好きな山へと出掛けたものです。「気をつけるんだよ。大丈夫か」とたびたび私を気遣ってくれた夫。これからは何も心配することなく、大地を吹き渡る風となって、のんびり休んで欲しいと願うばかりです。
 皆様より、お力添えを賜りましたことへ、深く感謝を申し上げます。
 本日のご会葬 誠に有り難うございました。
 略儀ながら書状にて謹んで御礼申し上げます。

奥さんは今、60歳代後半ほどか。たぶん今までで最も美しい。