媒介者としての孔子

白川静孔子伝』より

 「孔子が学んだものは、必ずしも古典ではない。古典の学は、このときなお未成熟であった。しかも孔子の学は「学んでときにこれを習う」〔学而〕というように、実修を必要とするものであった。孔子は、・・・身に危険の及ぶときでさえも、なお樹下に礼を習うことをやめなかった〔史記・世家〕といわれるが、実修こそ、孔子の教学の根本であった。それは孔子の学が、本来巫史の学だったからである。孔子はその実修を通じて、伝承の世界を追体験し、その意味を再解釈し、それを意義づけようとした。これらの伝承はおおむね神事や儀礼に関しており、巫史たちによって伝えられてきたものである。儒の源流は、そのような巫史の学に発している。
 孔子はみずからの学を「述べて作らず」〔述而〕といったが、孔子においては、作るという意識、創作者という意識はなかったのかもしれない。しかし創造という意識がはたらくとき、そこにはかえって真の創造がないという、逆説的な見方もありうる。たとえば伝統が、形式として与えられるとき、それはすでに伝統でないのと同様である。伝統は追体験によって個に内在するものとなるとき、はじめて伝統となる。そしてそれは、個の働きによって人格化され、具体化され、「述べ」られる。述べられるものはすでに創造なのである。しかし自らを創作者としなかった孔子は、すべてこれを周公に帰した。周公は孔子自身によって作られた、その理想像である。
 ・・・伝統においては、完成された個性はすでに個性ではなく、その人格の全体が伝統の場となる。述べるものはその個性ではなく、伝統の場としての没主体の主体であるといえよう。「述べて作らず」という一章においては、孔子はさらに遠く、おそらくは神巫の名と思われる老彭への回帰を語っている。もともと「述べて作らず」というのは、巫史の伝統であった。しかし巫史の学には歴史意識がない。孔子はその学を歴史的世界の場で、真の伝統に転化したのである。
 ・・・孟子孔子のこのような事業を「集大成」〔万章下〕であると称した。そしてまたそれを、楽章のはじまりと終わりの楽器にたとえて、「金声にして玉振す」ともいっている。集大成とは、多元にして包摂的な伝統の形成過程を述べたものであり、金声にして玉振すとは、その精神的な様式のとしての完成、定型化をいうものと解することができよう。・・・しかし孟子のいう集大成の意味するところについては、孔子は具体的には何も述べていない。」
──儒の源流──

 白川静孔子伝』も、あと一章を残すのみとなった。おもに博多駅までの往復の車中で読み継いでいたのだが、なんとも充実した時間で、本を閉じるたびに、「こんな贅沢をしていいのかな」と、つい口元がゆるんでしまう。が、もうすぐそんな至福の時間が終わる。なんだかさびしい。
 以前、「するする読める」と報告したけど、考えてみれば、これ以前に何冊か読んでいるので、そのときに比べたらスムーズだという話。
 そこで、またぞろ、抜き書きをするかな、と思いつつはっきりしない。それというのも、白川静の文章は、何度も何度ももとにもどりつつ先に進んでいく。堂々巡りではないのだが、重ね塗りをしていくようで、論理的に進んでいるわけではないし、章立てはされているものの、そのテーマ自体が重なってくる。だから、『形態の精神』のときのように、順番に抜き出しても一貫性に欠けそうだ。それに、もし抜き出そうとしても、2〜3行でというわけには行きそうにない。
 ともあれ、何とかして報告したくなるのは、たとえば筆者のいわんとするところが次のようなことに思えるからだ。
 孔子は「克己復礼」という。己を乗り超えて、周礼に帰すること。己はその前代と後代との媒介者に徹すること。それが「述べて作らず」の意味であり、「仁」とは、その礼を己を投げ出して実践することだ。
 たんなる媒介者としての自分。
 が、それは、白川静自身の自画像ででもあろう。
 そう考えたとき、「オレはツクるぞ」と思う。述べてなんかやるもんか。ただ、ツクるぞ。
 Fどの。そろそろ今年のプランを考えてくらはい。

別件
 病床の尾崎一雄を訪ね、「バラック暮らしだとこんな風情もある」と『昔日の客』の関口良雄さんが報告した「女房の・・・」の句だが、「老妻の・・・」のほうがもっと秋は深まるのではなかろうか。
 そういうえば、いつごろだったか、Gの附け句に「古女房の過ぎたる支度」というのがあった。あのころのほうが、何かほのぼの感があったかもしれない。
 庭では十月桜が満開。写真にうまく収まらないのが残念。