井上靖『春を呼ぶな』

 春を呼ぶな    井上靖

春を呼ぶな、一抹も春を呼ぶな。
そのまゝでいい。
たゞ、しらじらと砕けてゐればいい。
そのまゝでいい。
たゞ、さむざむと拡がってゐればいい。
陸奥は吹雪だ。
津軽は吹雪だ。
二つの半島に抱かれた海峡!
堪へて、堪へて、ぢっと堪へて吹雪の中に暮れるがいい。

海峡の底深く、真赤な花が開くであらう。
寒潮よりも冷く、
寒潮よりも厳然と、
意志が、真冬の海峡の意志が、
今宵、静かに、ひとり開くであらう。

 シンボルスカの詩を写していると、昔、金澤が教えてくれた井上靖の詩を思い出した。──金澤自身はもう忘れているかもしれん。それよりもっと昔、小崎に「バッハをはじめて聴いたのは、お前の家の二階でだった。」という話をしても、「そんなことあったかなぁ」。・・・あの人たちは淡泊なのだ。──GとFには何年か前、コピーを送ったことがあるはず。
 井上靖20代のものだという。あとがきで本人はつぎのように言っている。
「詩というものは、詩集に収めて初めて一本立ちするものであると言った人があるが、若しこれを真とすれば、若い日の私が生み出した幾つかの詩篇は、半世紀の歳月を経て、今日、初めて詩篇として独立した生命を持ったということになる。多少の感慨なきを得ない次第である。
 こんど一篇一篇を、丁寧に読んだが、さすがに若さというものを、美しく、眩しく思った。」平成元年十月

別件
 グループ・ホームで楽しいことがあったから報告。
 Uさんという90代の方がいる。息子さんは幼稚園を経営しているとかで、「おふくろも今ちょうど、園児たちと同じレベルになったようですなぁ。」実際にとても可愛らしいお婆ちゃんだ。
 だいたいあそこは美女ぞろいで、あんなこと珍しいんじゃないかと思う。昨年なくなったF先生(もと幼稚園で先生)なんて最高だった。あるとき訪ねてきた息子さんの顔を、右から左から、斜め下から、なめるように見つづけている。介護士さんから「F先生。ご自分の作品の出来映えはいかがですか?」と声をかけられて振り返ったときの、あの満面の笑みは永久に忘れない。
 で、Uさんの話。
 グループ・ホームでは、9名の洗濯物を整理するために名札が用意されている。その名札がどういうわけか、Uさんのものだけテーブルに残されていた。Uさんはその「U様」となっている名札を何度もひっくり返して「これは何ですか? この人はもう死んどりますが。」
 たぶんUさんの頭には、「U様」は「主人への宛名」としてインプットされているのだろう。