安西冬衛

今月の詩        
                      2014年9月

 「鶏が先か卵が先か?」という話がある。
 卵は鶏が産む。鶏は卵から産まれる。
 じゃ、この世界に最初に現れたのは卵か?鶏か?「鶏が先か卵が先か?」
 それと同じような話で、「タンパク質が先か遺伝子が先か」と、これまで皆が頭を悩ましてきた。
 タンパク質は遺伝子によって作られる。その遺伝子はタンパク質である。タンパク質が先か?遺伝子が先か?
 そういうのをアポリア(論理的なデッドロック。※デッドロック和製英語)と呼ぶのだそうだ。
 キレそうになった人たちは、「生命は宇宙から来たんだ!」と言う。来年打ち上げられるハヤブサ二世号は、その宇宙の生命探査が目的のひとつらしい。
 が、この楽しい論争に終止符が打たれた気がする。
 「タンパク質(高分子化合物)が先にできた。」

 夏休みに一冊の本を読んだ。
 中沢弘基『生命誕生─地球史から読み解く新しい生命像─』 (講談社現代新書 ※図書室所蔵)は、これまで種々の説が錯綜(さくそう)し、揚げ句の果てには「生命は宇宙から来た」と言い出す者までいた「生命の誕生」を、最新科学の知見を総合し、原始地球の環境から考えた──わたしがノーベル賞委員ならイチオシする──画期的論考だった。
 詳しくは最後に著者自身のまとめている裏側のプリントを見て欲しいが、興奮したことが幾つかある。
・遺伝子が出来上がる前に「個」が生まれた。
・自己増殖をはじめた物質(個)が原始生命体である。
・自己増殖が「種」を形作った。
・生物の進化の原因は、自己増殖をし損なった物質の記憶が遺伝子に残ったことにある。
などなど。
 しかし、もっとも得心がいったのは、これまでの「生命樹」(進化の系統図)で最大の疑問だった「一つの生命がすべての生物の母だ」という考え方をくつがえしてくれたことだ。
──生命樹の根は無数にある。
 ひとつのものから多様性が広がったのではない。この世界はもともとから多様だったのだ。もちろん今も。
 「西洋の科学は一神教の呪縛(じゅばく)から脱け出せずにいる」
──すべての始まりは一つである。。そしていつかまた一つに収斂(しゅうれん)される。
 キリスト教的世界は1から始まり1に終わる。そうでないとあの人たちは安心できないらしい。「1かゼロか。」
 しかし、それではリアルな歴史は見えない。ものごとや人間は多面体なのです。もちろんその「1か0か」の考え方が現在のテクノロジーの隆盛(りゅうせい)をもたらしていることは君たちのほうが良く知っているはずだけど。
 いまや西洋人だけでなく、我々もまたいつのまにか「1」の呪縛(じゅばく)に囚われはじめている。
「賞味期限を過ぎた食べ物は毒だ。」1か0か。そう考える人たちにとって1とはどうやら100%のことらしい。
──無数の始まりが収斂(しゅうれん)していく過程が前半の進化だった。
 きわめて逆説的だが、中沢さんはそう言っているように思える。そして、「後半の進化はまだ始まったばかりなんだ」と。

 『今月の詩』に話を持っていくため、強引に話題を変えます。
 君たちは「おふくろの味」というのを知っていると思う。
 よく「○○屋のラーメンが旨い」「いや××屋のほうが美味しい」という話を聞くが、要するにそれぞれの好みを主張しているにすぎないと思う。その原点がお母さんが毎日作ってくれた味噌汁の味。
 結婚した女性は最初、料理の味付けに苦労するそうだ。転勤族で東北の女性と結婚した同級生は60近くになって「カミさんの料理がやっと口に合うようになった」と言った。たぶん半分は奥さんの工夫が成功したから。あと半分は同級生が馴れさせられたのだと思う。
 賢いひとは夫と一緒に里帰りしたとき、お義母(かあ)さんと台所に立ってその好みを伝授してもらうのだそうだ。(もちろん最近は台所に包丁も俎(まないた)もない新婚家庭があるそうだが、、、)
 子どもの頃に味わった味は、ずうっと終生なんとなく覚えていて「美味しい」「不味い」の基準になる。
 同じように、中学から高校──つまり青春時代──にかけて、私たちのなかには「何が正しいのか」「何が美しいのか」という基準がいつのまにか出来上がり、それはその人の生涯を頑固に束縛(そくばく)していく。
 「お袋の味」に対して、私はそれを「青春の色」と呼ぶことにしている。
 いま、君たちの中には知らず知らずのうちにその君たちの生涯を規制する「色」の基準が出来つつある。だけど、勇気を失うまい。「無数のものが自分の中で収斂していく」こと、言い直せば、「自分の意志で自分の自由を減殺(げんさい)してゆくこと」が、成長することなのだから。
 
 今月はお喋りが長くなってしまったし、裏には中沢さんの生命樹を載せなくてはいけないので、私の知っている範囲でもっとも短い詩を紹介します。大好きな安西冬衛(1898〜1965)の詩です。

          春

 てふてふが一匹韃靼(だったん)海峡を渡つて行つた。

             ※「てふてふ」はもちろん「蝶々」。