変容を恐れない野見山暁治

2011/10/01
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 久しぶりに列車で筑後川を越えてきた。(久留米、石橋美術館)いつ見てもいい川だ。
 野見山暁治の飯塚時代のものから今年のものまでを並べた回顧展だった。
 ただし、最初に画集で見て、「この人はすごい」と感じたベルギーのボタ山のデッサンはなかった。回顧展をみたあとでも、あの絵がいちばん好きだ。
 美大の事前審査(?)のとき、「他のものは立体を上手に描いている。しかし、これは重さを描いている。」と言われ、「どこで学んだ? 先生は誰だ?」と訊かれて、答え方に困ったと書いているが、その中学時代の先生と並んで写っている写真もあった。生真面目そうな鳥飼先生の横で、寸法のつまった学生服を着て偉そうに坐っている。足は、おろしたてかと思われる下駄だった。
 まだ中学時代も自画像があった。過剰な自意識が感じられるものが多い若い時代の自画像だが、野見山のものには、先月なくなったMさんの遺影と同じような自然さがある。「この人はもともとから、思いこみや思い入れなどというものとは無縁だったんだな。」物に向かっても、人に対しても、もちろん風景も。その風景画のなかには、福岡空襲の跡を描いたものもある。空襲の跡の絵なのに、(というのは、こちらの思い入れ)静謐で神々しいほどに美しい。
 1948作となっている風景画もある。いっさいの迷いが感じられない。「この人は、オレが生まれた年にはすでにこんな絵を描いていたのか。」同時代に生きているとはいえ、彼とは約30年の開きがあるのだ。
 おおざっぱに言うと、40年代のものは、ゴッホの『馬鈴薯を食う人びと』を思わせる暗い色調だ。それが50年代になると、ピカソの青の時代を思い出させる不思議な色合いに変わっていく。そして60年代。渡欧後、一気に色が爆発する。(芸術は爆発だと言った人がいたが、あの人の絵自体は少しも爆発していない。)そしてさらに具体的な形が消えてゆき、抽象性を帯びたものになっていく。ただし、本人にはたぶん、自分が抽象画を描いているという意識はないだろう。
 別室に、美術館所蔵の作品が並べられ、そこに野見山のことばが添えられている。『500字のデッサン』のなかのことばなのかもしれない。たとえば、藤田ツグジの絵には、「フジタの戦争画反戦的だ」とある。
 なかに佐伯祐三があった。「パリの街はうす汚く、ものがなしく、うつくしい。その街にのめり込み、狂い死にした男がいた。画学生だったぼくは、その街と男に、狂わんばかりにあこがれた。」
 並んでいる作品のなかに『アニタ』もあった。女はこんな愛しかたをするもんだ、と教えられている気がした。もう間に合わないけど。
 帰国後、色も形も内面にこもりはじめる。例の芥川××が「色とか形とかいう概念をもつ以前の嬰児がはじめて見た風景」と評した『何かがくる』もあった。『遠賀川』もあった。そうして、何色とも呼べない色彩から、次第に明確な色が甦ってくる。近年の絵になると、「うつくしい」という以外のことばが出てこない。「うつくしさ」は、けっして画家の願ったことではない気がするのだが、どうしても美しくなっていく。もう画家には、美しさを止める気持ちが欠けてきている。なかでも、漆喰を思わせる白は印象的だった。 
 たまたま今日は、画家とNHKのアナウンサーのトークがあると広告されていたが、「もう十分」。帰りの列車では、疲れが一気に出て、こっくりこっくりしていた。

 帰ってきて、「もう良かろう」と、画家が3,11後の東北を訪ねる番組をみた。

 6月はじめだったのだそうだ。震災跡の風景や構造物の残骸をみると、すぐにスケッチをはじめる。「おもしろいな。」「ふしぎだな。」「画家はこの指先で何か考えているんです。」「福岡空襲の夜、ずっとその美しい景色に見とれていた。その下に家族がいるということを忘れて見とれていた。」
 インタビュアーの山根基世が「画家って業が深いんですね」というと、「そうねぇ」
 が、5〜6日の旅を終えて東京にもどると、「あのとき言ったことは全部うそだ。なにか言わなきゃいけない気がして言ったけど、ほんとうはずっと放心していた。」
 この画家はたぶん以前から、形の奥にある気配を探ろうとしていた。(『遠賀川』に感動するのは、そういうことだ。)そしていま、形のなかでうごめいているものを描こうとしている。それが見えはじめているらしい。「いっぺん見たものを全部忘れなきゃいけない。そうしないと絵は描けない。」可塑性を孕んだ風景。その絵はやはり「うつくしい」と呼ぶ以外の能力がこちらにはない。
 
別件
 あるクラスで、授業が始まる前に、
──このクラスの担任の先生はかわいいな。
──どこが可愛いいんですか? 僕たちにとってはただのオバさんです。
──そうなのか? 私にとっては、自分より若いひとは皆かわいく見えるけどな。
 という話をしていると、横にいた女の子が、
──じゃ、わたしは?
 と口をはさんでくる。
──めっちゃ可愛い。
 というと、うれしそうに笑った。そのあと安心したのか、その生徒は、授業が始まると、ウトウトしはじめた。